考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

宇宙チャンク・糸電話

 ケース・スタディ。ある自我の内面を切断し、複合体の腑を現象、分析、乗り越えを行う為に作品が作られるストイシズム。バシュラールアルチュセールの切断は切開ではない。欠損とは、傷ではない。ドライブをする自我は途方もなく何処かへ連れ去られてしまうが、彼れは近現代に完結した宇宙でアメリカ大陸を探すのである。航行それ自体完結した船、が永遠性を内包した小宇宙のドライブをするパラノイアに陥る。ユーラシア大陸を平面宇宙の地平線とするのと同等のパラノイアだとしても、豊穣の大地に住まうことがこの生物の欲望ではなかったか? 亡国の旅行者は永遠の甲板で加速し続けるパースペクティブの快楽に体を失う。視野狭窄のビデオ・ゲーム。この論理を信じるならば、作品制作と盤上遊戯が全く以て等価となり、私たちはマルセル・デュシャンと同様にチェス・プレイヤーになるのである。

 

 億劫で厄介な呪縛から自由になって幽霊みたいに身軽であった。大事なものなどは煙になり、残ったものも淡白な味がして処分した。世界の始まりのように身一つ。言葉かシャレードの形をした得体の知れない感情をぶつけられることもない。

 ここらで手仕舞い。骨折り話はこんなもの。誰れも彼れもお前を責めない。なぜなら馬の骨は煙に消えるのだ。夢にまで見た海岸の見える港街。晴れの日は畑に汗を流し、雨の日は本を読んで暮らそう。土の着いた大根を顔の横に持ち、皮膚の厚みまで笑顔に変形した誰かの写真が私を許してくれるように。未踏のアメリカのように、誰も知らない土地に恋焦がれた。

 だが、私は髪を切らなかった。占いが外れたところで、迷信が莫迦莫迦しくても、あれもこれもを諦めようと思ったが、そのどれもが諦めようがなかった。爆心地に墜落しようが、たとえ砂漠であれ、絶望であれ、独り身はいつだって身一つを信じるほかはない。馬鹿のようにビールをあおるのは当然ながら。

 

 完成した世界で表現をしていく。世界の不足した部分を補っていく、その為にしかものを作れないのだとすると、私は空振りをする。未完成な自分自身を補っていくしかするべきことはないか。いやいや……未完成な他者を補完することもできる。他者を癒す時には自己の存在を赦すことができるものだ。そうすると、長いこと、せいぜい数ヶ月だとしても、治癒と善行に酔うことができる。成る程、世界がどれだけ最良へと向かっても人間はなお欠損していくであろう。

 世界の中で私たちだけが手の施しようもなく不完全であった。こんなのも人間ゆえの錯覚であるかもしれない。嫉妬深い奴には完全が美しく見えるだろう。だが、私たちは誰れも彼れも不完全、悩み、苦しみ、妬み、罵声、そして情と熱の泥人形。泥と土埃で染みだらけの私たちは愛おしかった。欠けた者が欠けた者を癒そうとするのは不完全な生き物だから、運命に確約された不幸のために受け継がれた疾病であると、私には思えた。

 

 あのケミストリーは、私が好きだったあの感覚は、調和は、時間と共に消えてしまった。マトモな時計であれば逆戻りはしない。超自然の斥力によって私の立つ瀬は時間の彼方へ押し出される。手頃なところで調和を作り出そうか。いいや、失われたものは調和ではない。失われたものは存在だ。あの日の私や、あの日の愛も、世界を代償にしたとしても取り戻すことができない、あの結び目であった。

 ……のち、修復された傷。私が求めたものは実用的な、温もりを持たない機能ではなかった。時間の一回性。それは一回である。チャンク化した時間の中で、私は言葉にならない幸福を感じた。だが、それは一回である。解かれた結び目は、もうどこにもその印を持たず、数十億の糸の中で、かつて結ばれた糸は存在の背後へ、n次元のその糸は、世界の奥底に撚られていく。

 死とともに消えるあの美しい波動は、不在であるからこそ魂と呼ばれるのである。テキストはダビングした魔力に過ぎないが、論理体系であるところの魔術は科学できる。可笑しな話、人間は科学によって人間を人間に修正してきた。言い換えれば、神の呪いを科学によって祓ってきたのである。

 あるとき私は神の片鱗を捉えた。その存在の位置を理解した。あらゆる次元の外部、そしてあらゆる次元が結ぶ段階的な調和のその中央に。津波のような魔力。津波そのもの。次元の力場。その背後。感覚的に。神をかつてそうされてきたように、擬人化することや、神格化することも煩わしかった。相対的な確率を結ぶ超次元の線の上に神はあるのであった。ひとは神の形を変えることができるだろう。神によってひとも形を変えられることだろう。相対的に。神に触れることはできない。魂が魂に触れることができないように。私は悲しいだろうか? 私は音楽とその合間の、辺りを包む静寂を楽しんでいた。

 

 日が昇る度の騒音、騒音、騒音。言った言わないで擦った揉んだをする、もう何度目かの悪の狂騒。生物学的差異は科学だろう。感情は実存の背後よ。書くべきだ。詐欺家の手口で変わらぬものを物質界に対して刻印するべきだ。お手許のソリッド・ステイトに。

 私は女のことを女と言い、男のことを男と言うであろう。自由主義者は歯牙にもかけない。確率とは、存在ではなく不在のことを指す言葉。嫌なら嫌と言うための口である。お前の口が私を呪えば、そうしたらその通りの配慮をするのは、私の信条の限りあり得ることだ。いいや……それかもう私を忘れればいい。

 すべての不在にはシグモイドな確率がある。観測前の量子状態にまで配慮をすると、私たちは現実を埋め尽くす不在に殺されてしまう。世に蔓延する数多の不条理は存在と不在の間に居座る詭弁屋に由来すると私には思われる。

 ラスト・パラグラフは結び目だ。私とお前との結び目。曲がりくねった精神の帰する結論を聞きたいか? 人間はすべて悪であるため人付き合いでは悪の形を探るようにするだろう。努めて優しい人でも胸の内には極まって悪を飼っている。悪いだけの人も居なければ、善いだけの人も居ない。須く悪の形を変えることだけが必要で、善を目指すのは不要であると、頓に思うものである。