考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

開けられないままのオイルサーディン

 ぽわぽわという音は、目に見えない何かが抜けていく時の音らしい。大人になるとそんな音が時たま聞こえる。何かが抜けていった空洞には、空気のような、あるいは滲出液のような何かが代わりに入ってくる。もう何度目か数えるのも辞めた頃、何が抜けたのかも分からないがらんとしたガラスの器が残った。それはきっと特別なものを仕舞うための器に思われるが、記憶から抜け落ちた固有名詞のように名前を言い当てることができないのだ。役目を果たすことも、誰かの日々を飾ることもなく、戸棚の隅に捨て置かれている。痒みに似た仄かな疑問が胸に根を張り日を浴びることなく、ゆらゆら育っていく。

 日や月は巡りほんのわずかの間に通り過ぎていく感覚を追い越す。闇のトポロジーの空白を前にして、恐れ慄いていたあの頃の矮小で愚かな私を、憐れむようなまばゆい視線で見つめている。過去ばかりが遠く、眩しく。思い出ばかりが色褪せて、朧気。薄い霧の中、木舟に乗って幽寂の密林を彷徨っている。守るべきものなど何一つないと云うのに、夢を見ている。私だけがそうなのか、誰しもがそうなのか、そういったことは知らない。私はイメージの中に私自身を閉じ込めた。反復と増幅の機械へと。樒の園を踏み荒らし、外へと踏み出そうと立ち向かえば愈々どこへでも行けると云うのに、そのような勇気を奮い立たせる力が私の中には欠片ほども残ってはいないのだ。

 人の世は堕落を濾した水ゆえに真水になることはない。交わらない者共が一つの器の中に蠢いている。善と悪がいれば、無関係の野次馬と出歯亀がスポーツマンシップの邪魔をばかり企てる。シンプルに事が運んだらどんなに快適か。常日頃はっきりしないくせにグレーではいられない。煩雑さが世界の結び目をどこかに隠してしまう。ヴィレッジヴァンガード風の散らかった世の中が群衆にはかえって魅惑的らしい。だから私は、あれもこれも世の中のせいにして、意思を持つことを諦めて、魑魅魍魎の一つになろうと思った。あんなにも恐がっていた幽霊は、天井の木目にまぎれて見えなくなった。失し物は遺失物預かり所の倉庫の奥底で埃を被って息をひそめている。決して見つからないということが答えだという時もある。大概がそんなことばかりなのだ。

 誰しも期限切れになった自分を交換していく。あの時の自分らしさはとうになく。暮らしはスクラップ安堵ビルド。ままならぬ束の間、ひと息の安堵。勝手気ままにリサイクル。なんてことない別れの句。なんてこともないのは、すっかり手を抜いてしまったからだというのにね。セカンドライフ、輪廻転生。疾うに余生、衰退せり。あがり鯰は、ぬめりを失ふ。役を負いて心倦むは、人の世に生を受けたるがこそ。競り出づるほどの我あらめやは、この度の人生は目出度く儚し。察察たる言葉を呑んで、汶汶たる満月に酔い痴れる。如何とも惨めなのさ。青畳に汗ばんだ裸足の指の隙間を抜けていく芽吹く季節の酔狂なやつらと共に、行く宛てのない心の在り処を求むるがままに。

 尊きもの、美しきもの、掛け替えのないもの、あらゆるものを手放した。それらを想えば後悔は露ほどとは言い難く、固執や執着は無形の痼に変わっただけであり、言わば蝕まれている。悔いのない人生を歩む者はつまらぬ人生を歩む者だと言い聞かせる。最後に残ったものがこれでよかったのだと繰り返す。電気椅子職人にも一抹の誇りがあったであろうか。苦しみしかないか、いずれは救われうるのか。心に棲み着いた輪郭を持たない憧憬も、捨ててしまえば肩の荷も降りるというのに、生涯それが叶うことはないということだけは確信めいたものを持っている。日陰を歩くことしかできない片足の鶏、肉の奈落に囚われた干乾びた獅子よ。貴方方の存在が私を締め付けるものだとしても、せいぜい貴方方のような人々にぬけぬけと笑われている方がずっとましだろうと思う。かなぐり捨てられない自尊心も、いつの間にか河原の小石程度には丸くもなるだろう。せめてひとつだけ願いを聞いてくれるとするのならば、どうぞ軽薄な私を愛していてください。

破片と花束

 ジッと寒気に吹かれていると、愈々耳先から凍るかもしれない。枯れ葉の波が一陣の風に乗り横薙ぎに地面を走る。何処か遠い洋上に居るような錯覚を覚える。独り者特有の物思いに揺られていると、知らず知らず嵐の海域に取り残された小さな筏に揺られている。誰からの助けもなく永遠に彷徨う惨めな筏だ。凍った頬が主の意に反して冷笑までしさえする。

 朴の木の黒い葉が共鳴した小声のような風に吹かれ、自ずと打付かり合い、薄暗くざわめいている。やたら重たい影を引き摺って冷たい棲家に辿り着いたあとでも、何処か遠くの方で鳴り続けている。この頃はよくあることだ。あれらのものに心を奪われてはいけない。昨夜うっかり割ってしまったお気に入りのお皿がまだ名残り惜しく、砕けた破片のまま食卓に飾ってある。決断を先延ばしにしているだけだろう。斯くて運命は気まぐれで、残念なことに破滅的であるがために。

 あの夜、踏み外した一歩は一見すると小さな段差に足を挫いただけだった。それにしては堕落が常に一方通行なのは、地獄に近づくほど地下水脈から滲み出る亡者の血が、やはり重たいからだろう。ある愚かな山椒魚は岩屋に籠もったきり目に余る物草のために二度と世に出られなくなった。成熟を迎えても籠城する愚かな人の子ならばどうか。忽ち世に出て行けるか、頭蓋をして産道に蓋するか。

 夕暮れ五時の黄昏色に染まった集合住宅の横並びの凡庸な窓と無個性なカーテンは、そのどれもが世界を閉じ切っている。世界の小ささに溺れたりはしないのだろうか? 自由意志の赴くままどこへでも行けたのならば、痩せ果てた盆地に見えたあの場所さえも頂きの景色だった。老体を満たすのは時間と共に冷える許りの余熱のみ。永遠に見えるものでさえも時に消耗品なのだ。

 孤立した羊を追い立てる冷たい嵐の中を掻い潜り、後ろ手に重たい鉄の扉を閉じる。静寂が止んだかと思えば、やはりあのざわめきが耳の底で鳴り続けている。嘲っているのか、憐れんでいるのか。聞き取ろうとすればするほどに不愉快なだけの曖昧な騒音となる。震える膝の痛みに意識が行くと、それっきり聞こえない。あれなどその程度のものではないか。

 濡れ雑巾になったシャツを脱ぎ捨て、冷えた背中に熱いシャワーをかけ流すと、鏡に映る背中の手の届かない、どうしても洗い流せない凝固した染みが私そのものなのだと気づいた。幾層もの汚れが凝固し、瘤化した背中の染みが人間を人間たらしめるのだ。その健気さと愛おしさに顔を顰めた。

 蛇口を絞り水を注いだ青島啤酒の空き瓶に花束を挿した。二十歳の娘のような、赤と黄色と橙が食卓を飾る。枯れるまで飾って、それからのことは考えないでもいいだろう。そのわけはあえて言うまでもないありきたりなものだ。

黄色い日記

「俺はこう見えても日記をつけているんだ。もう5年。6年。いや8年か。」
「へえ、日記を。お前がね。」
「8年前というと、書き始めは思春期だから。てぇことは6年前か。まあいいや。とにかくその頃はなんとも瑞々しいというか、気色が悪いというか、正直に言えばいっそ燃やそうか悩んでいるくらいなんだが。いやまあ恥ずかしくてね。とてもじゃないが人には見せられないな。」
「へえ。そんなもんか。」
「思春期の男てのは上に振れても下に振れても最悪だからな。どう転んでも気色悪いのは避けようがない。転んだ時点で男坂を転がり落ちる。思春期というのは切ないね。」
「別に、お前が気色悪いのは今も昔も変わらないよ。」
「は。で、案外ああいうのってのは、読み直すのが一番楽しいんだな。日記の醍醐味ってのはそこにあるな。しかし、まあお聞きなさい。俺はね、とんでもないことに気がついちまったんだな。もうびっくり仰天。膝からキノコが生えるくらいにはね。」
「ああ、膝からね。」
「もう6年も日記を書いてるからな。世の中広しはといえ、これは俺しか気づいていないかもしれないんだがね……」 


 彼は生来の秘密主義者であったため、気心の知れた友とそういった話題になっても、郵便局の角で別れたあとも、夕暮れの畦道で物思いにふけっても、特に打ち明けたいとさえ思わなかったが、彼も10年前から日記をつけるのが習慣であった。
 彼の住んでいる町は地平線の向こうに山が聳え、見渡すほどの田園風景が広がり、彼は環境がひとの精神を作ると信じていた。日々同じようで少しずつ違う自然の表情と、それを鋭敏に感じ取れる自分の五感とが感応しあっていることを彼は知っていたが、その美しい風景のことを彼は好んではいなかった。美しいものを好きになれないへそ曲がりな気性だからこそ日記を書いてしまうのだと彼は思っていた。だが、内心では間抜けと見下していた友が日記をつけていることを知って、幻滅のような薄暗い感情を抱いた。
 彼はつとめて家族と顔を合わせないように素早く靴紐を解き自室に滑り込む。不仲という訳ではなかったが、何気ないあいさつが内気な彼にとっては苦痛であった。まだすっかり日が暮れていない時は窓を開けて外を眺め、一刻一刻と空気が翳っていくのを眺めた。その日は既に夜であった。
 彼は押し入れの底から手垢の滲んだ十数冊のノートを引っ張り出した。それら数年分の日記はどれも同じ大きさの黄色いノートで、表紙には年月日が記されている。橙色のか細い電灯の灯りに照らしてページをめくる。彼は10年も日記を続けていたが、過去の日記を読み返すということは好まなかった。思うままに言葉を吐き出すということにだけ欲求があって、彼の友が言うような読み直す醍醐味ということには関心を持たなかった。だから、確かに彼の友が言うような「気付き」には少しも気付くことはなかったし、そのことが彼をより深く幻滅させることになった。それでも、それから数か月は日記を書き続けたが、次第に筆が乗らない日が増えて、いつしか辞めてしまった。


「すまないけどね、そこにある黄色いノートを取ってくれんかね。」
 ベッドに横になった老人は、向かい側の背の低い本棚を指差した。恐らくまだ十にもならない背丈の少年は、老人の指差す本棚を物色して、やがて日に焼けた黄色いノートを見つけ出した。少年はベッドで横になったままの老人の枯れ木のような指の間にそのノートを柔らかく挟み込んだ。
「これのこと?」
「ああ、そうそう。ありがとう。」
「汚いノートだね。」
「ずっと昔のだからねえ。」
 老人は肩から下げた老眼鏡を耳に掛ける。乾ききった親指を舌で舐め、ページをめくる。何かを探す風に、一ページずつ。そして、あるページを開いたところでめくるのをやめ、今度は逆向きに二、三ページ行ったり来たりをするが、次第にそれもやめる。
「あっくんや。」
「なぁに。」
「なんでもいいんだけどね。日記や絵日記なんかを書いたりしているかい。」
「うん。夏休みの宿題で書いたよ。」
「そうかい。あっくんはえらいねえ。ちょっとね、じいちゃんに見せてくれるかい。」
「いいよー。」
 少年は生返事をしながらゲーム機を折り畳み、猫のように椅子から飛び起きる。絨毯の上に無造作にひっくり返った紺のランドセルの口を開け、表紙に花の写真がプリントされた学習帳を勢いよく引っこ抜いた。その拍子にランドセルの中から筆箱が飛び出て鉛筆が散乱するが、少年は大雑把にそれらを鞄の底に詰め込む。
「えっとー、うーん、えっとね。読んであげるね。えー、7月22日。今日はおひるにそうめんを食べて、友達と公園で木に登って遊びました。公園っていうのはみつまた公園のほうね。あと、テレビでおもしろいお笑い芸人が出ていました。名前は忘れました。えー、7月23日。今日はみんなで車で川に行きました。魚をとって、焼きました。あと、サービスエリアのところでチョコとバニラが半分半分のアイスクリームを食べました。おいしかったです。7月24日。今日は友達と公園でカナヘビを捕まえました。そこで他のクラスのひとたちがサッカーをしていて仲間にいれてもらいました。サッカーボールが欲しいってお母さんに言ったら誕生日に買ってくれると言っていました。7月25日、今日は……」


 老人は少年の読み上げる日記を黙って聞いていた。少年は最後まで読んでしまうと一仕事終えたかのように一息ついた。
「お終いかい。」
「うん。あ、先生の赤ペンがあるよ。楽しそうな夏休みでしたね。ところでアサガオは元気かな?だって。意味わからーん。」
 少年は澄ました顔で学習帳をまた紺のランドセルにしまうと、金具を締めて、そのまま両肩に背負う。老人の枕元に近付くと、両の手のひらを差し出す。
「読んであげたからお小遣いちょうだい。」
「あいあい。ちょっと待ってな。」
 老人は枕元の薬箱から小銭入れを取り出し、少年に少しばかりの駄賃を与えると、少年はそれをズボンのポケットにねじ込み、ずれたリズムのスキップで玄関まで行く。不器用に靴を履く後ろから老人が声を掛ける。
「また、じーちゃんに日記を聞かせてくれたら嬉しいなあ。」
「うーん、気分次第かな。バイバーイ。」


 やがて一人になった老人は枯れ木のような指で薄汚れた黄色いノートを開き、掠れて消えそうな文字を指で追う。そしてまた、あるページを開いたところでめくるのをやめ、今度は逆向きに二、三ページ行ったり来たりをするが、それもやめる。
「膝からキノコが生えて、それから……どうしたか。あの男が大したことないようなことを言ったために……この、あの男というのは一体誰かねえ。ここはもう仕事の愚痴ばかりかね。なんだったか、膝からキノコが生えて、それから……」
 老人の手元の見開きページは左中段の辺りで書き込みが途絶えていて、右から残りはすべて空白であった。老人は親指を舐めて何枚もページをめくるが、もはやどのページも空白であった。それでも執念のような面持ちで親指を舐め、貯金の札束を数えるかのように念入りにページをめくるが、やはりすべて空白であった。老人の表情は疑念とも悔恨ともつかぬ風であったが、それは彼の顔に刻まれた皺の造形が意味深長さを演出しているだけのようにも見える。
 やがて短い溜め息とともにノートを閉じると、老人は枕元の紐を手繰ってテレビのリモコンを引き寄せ、スイッチを入れた。名前の知らない芸人が大声で何かを言って客席の笑いを取るのを見たり、世間を騒がせている事件に神妙な顔でコメントをする、名前の知らない学者崩れの議論を見たりした。常のごとく、番組に飽きるとチャンネルを順繰りに回した。 
「なんだったかなあ。日記をやめちゃった訳くらいは日記に書いとかないといかんなあ。きっとしょうむない、つまらん訳だった気がするんだがなあ。今となっちゃあねえ。人生がどんなだったかも思い出せやしない。確か、膝からキノコが生えて、それから……」
 老人はぶつくさと独り言を言い、チャンネルを順繰りに回す内に、やがて日が暮れた。窓の裏には新築のマンションが建っており、壁以外には何も見えなかった。壁以外の何かを見ようとすることもなかった。

自動販売機の影にて

 気がつけばもうずっと、闇に頼っていた。闇によって産み出されたものが素晴らしかったとして、力を誇示し、己の肯定を続けるために、ますます闇に救いを求めるようになる。無尽蔵にも思える闇の源泉は、淫魔のように魅力的に目に映るのである。けれども力の反作用はそれ以外の部分、人間的な部分を蝕んでいく。その頃の私は、薬物依存者のように不健康だったことだろう。果ての見えない下降の底に小さく灯る明るい希望に酔い痴れた。その小さな焔に近付こうと前に進んでいるような感覚が、ある時を境に、本当はただの垂直落下の風圧ではないかと疑うようになった。星空のように遠くに確かに存在すると言われても、それは既に、紙に絵の具で描かれた書き割りにしか思えないのであった。あの時、もうすぐのところに見えたように思えた希望は、もしかすると本当に、本当の希望だったのかもしれない。ただ、それを手にするよりも先に身体がぼろぼろになってしまうような気がした。不確かなものに向かって盲進するには、少し歳を取り過ぎていた。それからは特に迷うこともなく、光とともに生きていこうと決めた。


 青空や青春といったものには不慣れな体には、夏の強烈な青い光線が馴染まず、いつも薄目を閉じてしまう。それはまるで青空のように、ほとんどすべてが否定しようのない厳粛な正義という言葉。言葉はひとの作るものだ。だからこそ正しさとは何だろうと考える。無能で安価なお茶汲みロボット。情報で肥えさせられた空っぽの家畜。ものと言葉をボンドでくっつけた粗雑な売り物。エトセトラが目に余る。道理の疑わしいものであっても、愛想笑いと共に受け入れていかなければならない世界の仕組みに、この身体はまだ拒否反応を示している。時折、思い出したように自動販売機のつくる影の中に郷愁を感じる。それは一体どの記憶を思い出していたのか。郷愁というよりも違和感のような何か。それを思い出す間もなく信号は青に変わり、陽炎に歪んだ光の下にふたたび足を踏み出していく。ただひとつ確かなことは、黒いアスファルトに白線が引かれている。決して逆ではない。


 普段は人でまばらなホームが人で溢れているということは、近くの路線で人身事故があったのだろう。繊細な表現をするべきではあるが、やはり事故と言ってしまうと胸につっかえが残る。身投げなんて言ってしまうのはもっと気が滅入ってしまうだろうけれども、忘れ物を取りに戻るのと同じ程度の時間、たかだか数分帰宅が遅れるに過ぎない。ひとの命がたかだか数分に化けるのだ。忽然と消えていくものが多いにせよ。そうだからと言っても、嫌な気持ちと苛々が湧いてくるのは遣る瀬ない。どうせ死ぬなら、などと、そういう言葉が浮かんでしまうことが、何よりも貧しい。死人には、現世がどうなろうと知ったことではないのだから、心を尖らせるのは無駄だし、死体蹴りをするような卑しい荒んだ人間に成るなよと。それらの感情とは別に、産毛の上でそわそわする気持ちの理由を考える。時間が無駄だとか、どこまでも自己中心的な、人の命に関心のない冷え切った鉄の心、責任感のない電光掲示板を流れていく解像度、不愉快な産毛の感触は、言葉にならないままで記憶された既視感なのだろう。いつからか何かがおかしくなった漠然とした現実が、心の鉄を刀鍛冶のように一心不乱に鍛えるのは、何を不純物として取り除くためであろうか。あるいは、誰を討ち殺すためであろうか。型に鋳れて大量生産される、悪意もなければ善意もないような人間が、死体蹴りをする人間と何が違うと言うのか。もしも人の心がまだあるのなら、名前も顔も知らない誰であれ、命が化けた数分くらいは黙祷を捧げればいい。感受性の欠落した人間がどうして死体と違うと言うのか。

 

 やたらと月の大きく見える満月の夜。あの月は綺麗だろうか。花鳥風月に感じ入るほどの心のゆとりもなく、足元を照らす以上の価値は感じられなかった。床に入っても眠りにつけず、頭だけが疲れた日に時々あるように、目を閉じたまま宵の明けるのを待った。言葉を話すのを抑えて生活をしているためか、雑然とした止めどない情念が浮かんでくる。昼間にビルの窓から見た横断歩道の白線を貼り直している人たちのこと。覚えていたら後であの白線を踏んでみようと思ったのにすっかり忘れて帰ってしまったこと。白いカラスもいるからカラスは白いと自慢げに語るひとのこと。あるいは白いカラスもいるからカラスが黒いのは差別だと叫ぶひとのこと。幸せそうな人を見ると、この人たちは他の誰かから幸せを奪って生きているのに、あんな風に笑えるんだと思ってしまうこと。白と黒。闇と光。意気揚々と明るい未来に向かって舵を切ったにしては、相変わらず貧しい心だ。闇に頼らないで生きようと決めても、決めたことをどうして何度も迷うのか。そんなことで何かを決めたと言えるのか。闇と光の交代する明け方、またしても救いのない、太陽の空回りする光線に行き場のない雑念は掻き消される。身体の疲労のままに熟睡していた頃を懐かしく思いつつ、だらりとした身支度が行われる。


「花を愛でるのは人間だけだから」

 

 不意に飛び出す言葉には自分でも驚くことがある。言葉少なに生きていると口が言うことを効かないものだ。気取ったことを言いながら、花に眼を向けていない自分に気がつくと、どうしてそんなことを言えたものだろうと考えてしまう。綺麗なものは、見ようと思えばそこにあるのに、どうしてそうと気づけないのだろうか。余裕のない心。じめりと肌に吸い付く不快感と、過ぎ去るだけの時間の速さ。食べ残しのわずかな時間にさえ、頭のおかしくなった老人の話に付き合って、鼓膜の中に今にもはち切れそうな風船があるんじゃないかという気がしてくる。小さな歪の段差が積み重なって、貯め込んだ腹の中が傾いてくる。キャラメルチョコレートのように甘ったるい粘着質も、肉の輪郭をねぶるような汚い眼付きも、壊れた時計も、繋がらない電話も、鼻で笑う豚も、全部が全部、どうしてつきまとうのだろう。結局、光とともに生きるということが、そうしようと思ったことさえも冷たく笑えてしまうほど、馴染まない。ひとを憎むのがどれほど易いか。サイコキネシスも空中浮遊もできやしない。意志だけでものを変えられるわけではないことなど、20世紀の昔からとうに分かりきったことだ。そうだとしても、自分の生き方くらいは自分で決めようと思うのは、もう理由を書かなくてもいいだろう? ただ、こんなにも暑い日には、ほんの少しは休みを取ったって構わない。コカコーラの自動販売機の影で、馬鹿げた青空から身を隠して。当然、いずれは光の下にふたたび歩き出していくものとして。

形而上女子高生

「もしもし、かめよ。かめさんよ。せかいのうちに、おまえほど、あゆみののろい、ものはない。どうして、そんなに、のろいのか。」

「なんとおっしゃる、うさぎさん。そんなら、おまえとかけくらべ。むこうの、こやまのふもとまで、どっちがさきにかけつくか。」

 

 バットマンスパイダーマンのどちらが強いかという競争ならば誰しもの興味のあるところであるが、兎と亀はどうして競争をする必要があったのであろうか。兎はどうして亀を嘲笑する必要があって、亀はどうして不利な喧嘩を買う必要があったのだろう。今日のように怒号と情けとが混淆する乱痴気騒ぎの世の中では、そんなことばかりが気になってしまう。

 誰かを馬鹿にするものは、自分に自信がない。彼は、いまだ何も成していないにも関わらず、何者かになれると思っている。そう思ってはいるが、非言語の心象において彼の焦燥感は夜な夜な嵩を増すばかりで、自尊心と劣等感の板挟みに苦しんでいる。またあるいは、彼は自分に酔っている。産まれ持った性質、財産、家柄。彼の鍛錬や節制によって得られたものではないのだが、彼はそれに自信を負っている。産まれ持ったものであるからこそ、それを持たないものを気味悪がって非道く憎むのである。このような都合から、彼が自らの精神を正常に保つためには潔い自己愛だけでは足らず、愚鈍な何者かを口やかましく罵って悦に浸る必要があるのである。

 一方の亀もまた心根を曇らせている。己の健全な精神にとって害を成す他者というものは実際いくらでもあるわけだが、それらを拒否し、関係を断絶させることができるかは、必ずしも彼の望む通りにはいかないものである。小さな社会に住んでいたり、仕事上での関係があったり、この際事情はあえて詮索せずとも彼が兎の罵倒に耐えて日常生活を送らねばならなかったのは想像に難くない。平穏に慎ましく暮らしていたところに、心に歪みを抱えた童がやってきて傍若無人を振舞えば、その毒が蔓延して、穏やかそのものであった彼の心の奥に眠っている暴力性が膨れ上がるのは免れ得ないことである。

 これらの入り組んだ事情から、毒々しい口争いを発端に何とも奇妙な競争がマッチアップされるわけであるが、その結果はいわんやご存知の通りである。結局この争いが生み出したものと言えば、敗北感を植え付けられた兎と自尊心の肥大化した亀とであって、どちらにしても救いがない。兎と亀は結局のところ憎しみ合う運命の中で同類なのである。彼らはただ別れを告げて、あるいは黙って、どこか別の場所で暮らせばよかったのだ。そうしなければ、いつまでもその歪な精神が治癒されることはない。彼らがそこまで利口ではなかったという、それだけのことではあるが、我々の世界の不条理は、大抵は決して到達しない内的世界同士の戦争状態のせいなのである。たとえばそこに一本の石壁を引いて、あるいは一掬いの海を置いて、精神同士が摩耗し合うような事態を避けるように努力するべきだったかもしれない。相手を打ち負かしてトロゥマの心象を植え付けたところで、己の精神がますます荒んでいくだけだ。兎は兎どうしで、亀は亀どうしで力比べなり何なりをしていれば、このような歪を歪で相殺する荒療治に遭うこともなかったのであるが、争いというものの末路は大抵は不幸なものである。

 

 

「十進数の0.1は二進数では無限桁になるけど、三進数の0.1は十進数では無限桁になるのって報われない三角関係みたいで面白いよね。」

 と、マックで女子高生が話しているのが聞こえた。昨今の女子高生はあらゆる分野の雑学にどうしてか精通している。当然ながら、ここで言う女子高生とは、ディスクールのためのインターフェイスであって、彼女たちは情報伝達の霊媒師なのである。空っぽではあるが、どこにでも偏在している。要するに言語そのものである。下らないことばかり考えるのが板についているが、近頃の私はフランス現代思想を読み漁る日々だ。

 幸福というやつの正体は中々掴みどころのないものであるが、例えば非不幸という概念に置き換えてみれば、いくらか目星がついてくる。不幸というものは、天変地異を別にすれば大抵は人間が運んでくるものである。しかも、ある一定の決まった人間だけが不幸の運び屋なのである。この世の中では不思議な数字の論理が働いていて、あるものとあるものとではどうしても必ず比例するらしかったり、秘密の数式が発見されて魔法のような技術が実現したりする。直感に反するようなことでも、その結果に収束するということは背後で何某の論理が働いている。かつてはそれらが妖怪と呼ばれることがあったり、何某かの化け物の仕業ということに片付いていたものであるが、いずれにしても不幸や災いは人間の形をしているのであった。

 この地上に一本の電話線を引いて以来、ひととひととが過剰に聯絡を求める時代も来るところまで来たと暗澹たる気持ちになるが、技術そのものは非人間の形をしているために私には心惹かれるものである。ラカンによれば、乳児期の身体認識では、切断された機能群は統合されず横並びになる。それぞれは独立して関連性を持たない。そして、イマーゴと鏡像との接触を以て、乳児は人間への変態を始めるのである。私はこの切断された機能群ということに、人間以前の宇宙性、人型に化ける前の形而上世界への入り口を認めている。我々の仕事においては、開発された機能群は最終的にはヒューマンインターフェイスプラグインされて完成の形を取るのであるが、それらのプロダクトを構成するフレームワーク、むしろ十本指と言語機能とに基づいて形而上世界に建てられた空中工場、そういった実体を相手取って脳味噌を働かせていると、非人間の切断された身体に後戻りするかのような不思議な錯覚、ワンダーランドに転がり落ちていくような、そういった非不幸をどうやら私は手に入れたようである。

 

 私のささやかな夢は何人かの本当の友達を作ることだ。ささやかな夢は他にも無数にある。非不幸がいくつか寄せ集まると幸福になるのだと信じている。そしてそのかけがえのない幸福のためには、不幸と関係するものは切り捨てていかなくてはならない。子供の頃に大事にしていたものでも捨てていかないと、大人の身体にはいささか手狭になった部屋は一向に片付かないものである。心象とはつまり傷であって、それは網膜からやってくる。視覚的印象は空想に対してのみならず、神経系そのものに刺激を与える。神経の急所と深く結びついたイマージュは確かに存在する。不幸の残像を掻き消していくために、過去と、過去という概念さえも白いペンキで塗り潰して、心象を塗り潰して、最後には真っ白いページのような心象風景が残るのだろう。そして本を閉じると、内的世界は本棚の奥へ吸い込まれて、忘れられた置き物になるだろう。

窓のない廊下

 我々の仕事というのは無いところに煙を立ち上げるものだ。負い目を感じても仕方がない。生きていかなければならないのだから。存在と不在を好き勝手に入れ替えて猿を騙す手品。まるでスキゾな不安を詰め込んだお菓子の箱だ。甘い匂いだけして、ひとつも食べられやしない。追い詰められたら、ひとは空気を食べる。こうやって、妄想で。こんなのは人間の幸せなんかじゃない。存在に金がかかるのと、生活に金がかかるのとは違う話だ。存在税なんてものを始めたらいよいよだ。大地がなければどこへと歩くこともできないだろう。あるいは空中歩行を習得するにしても、脚の回転運動のための膂力はどうして既に身に付いているのだか。もしも生まれ育った不作の大地に嘆くのならば、植民地を支配すればよい。それが人間の傲慢なのだから。

 こんなにもいかれたつまらない街で、ひとがどうやって正気を保っているのか、私にはひとつも分からない。普通に健やかに生きるなんてことは、特に。区画化を加速する暴力機械に反抗して、自分らで遊び場を作り出さなければいけない。砂場、原っぱ、空き地をひとつ。人間は人類に対して勝利をしなければならない。非存在が存在を脅かす悪霊的なエーテルへの戦いという、些か難解なものであろうとも。

 チェス盤の8マス四方は32の駒に対して2倍の空虚を確保されており、その空虚が複雑な運動を作り出すのである。ひとの世界がチェス盤の次元なのだとしたら、そこではただ区画化された水平運動があるのみで、あらゆる人間的営みを排した道路交通の世界でしかなくなっている。この世界の大地にはマス目などない。地面にマスを描いたいかれた街は、ダイアゴナル・ランで陣形に混乱を生み出そう。馬鹿げた都市を瓦解させる、なんらかの有効なアイデア

 貨幣経済や政治体との別次元のレイヤーで新しい経済を作り出すには? 新しさというのは重要ではなく、ボイスの言うような芸術の経済として。芸術ではないものが芸術なのだから、あるいは芸術でなくても構わない新しい経済を。人間の退屈が作り出す回転運動、ヘテロドックス・オポジションの短期記憶のために退屈する8マス映写機。戦場が踊り場に変貌するのは記憶の長さにおいてのみである。それならば、双方の合意に従って和解陣形を解消し、闘争と遊戯への漸近的移行を、顔と顔との間で交わされる微笑によって誘惑する。その場合では、高度な知性と好奇心の繰り出す奇妙な舞踊であるのかもしれないが、平面機械の可能性の遊戯は、退屈を凌がせるひとつの趣味なのである。あるいは誰かの、ひとつの趣味が皮切りとなる別なる回転機械の拡張性を発見する、それが人生だ。

 新しい経済の到来する方角は、まさにこの目と鼻の先であろう。ボイスの読解かあるいは曲解によって始められる、この新しい何かについて、人々は既に予感し、到来を切望している。焦げる恋心の匂いに気づいて、その出処を思案する眠れる奴隷への、目覚めの発破。残念ながら夢みられた映画は爆発で幕を閉じるのであった。目覚めた奴隷は本当の現実に出会い、心を躍らせるだろう。それとも、みずからの手で映画を撮り始めるだろうか。どちらにしても、彼は初めて他者と出会い、支配を免れた楽園を創造するだろう。彼の類まれなる創造性と正義と知性によって。

 

 品格と言うときには、格とは格好のことだから、それは外観を指し、品性と言う時には性とは本性のことだから内観を指す。品があるというのは素晴らしいことだ。高級レストランで才色兼備なテーブルマナーを御披露頂くのも大変結構なことだが、それはあくまでも格好なのだから、誰がそこの会計を持つかという点については? 貴族がジャラジャラと財布を持ち歩く道理もないし、額に汗を流して産み出した富でもなんでもない。俗な現実は品格からは程遠いものだ。ゆえに彼らは本質的に階級格差を容認しており、促進さえしている。Noblesse obligeなどと宣えども、率直に言って人間の正義に反すると、一介の東洋人としては苦々しい気持ちになる。

 方一方の品性に関して言えば、それは本性なのだから、外観には現れたり現れなかったりするものであるが、川の流れる音のように、何処かの森の奥では必ず首尾一貫して響いている。品性を心に保っていれば奴隷であろうが没落貴族であろうが関係なしに、ひとつの確固たる人間性をその身に宿していると言えるだろう。

 幾らか東洋的なものの考え方であるかもしれないが、要するに私は品性というものが好きだ。それは各人の不断の努力によってのみ獲得し得るもので、親か誰かに流されて得ることも、金で買うこともできない。人間の核心とも言うべき真善美に関わる世界の本質の話である。人工ダイヤなんてものが可能になってからダイヤモンドの価値が失墜したように、宝石は人の手で作り出せないことがその価値である。手を焼かれた愚息も愚息、政治家の末裔などのNoblesseも容易に俗に廃頽するものだ。家柄や経済力に関係のないひとつの人間的指針、それが品性の素晴らしさであり、難しさである。

 詩も文学も好みで言えば品があるか否かだが、人文学に限らず人間一般においても同様だと肺腑に染みる。舌が肥えて良いことも少ない。現世を生きる者たちに期待を込めても仕方がないように感じ始めてしまう。軽率な自己正当化に与する愚かさなど……。ともあれ、他人に失望するのは簡単だ。「だから、どうするか?」それを問わねばならない。前を向いて生きていくためには。ならば、後ろを振り向かず、前だけを見て生きる必要はどこからやってくるのか。言わずと知れて、その先は坩堝。形而上学は、およそひとの精神が耐えられる世界ではない。偽物でも即席でも満足できる、俗物根性をインストールしなければならない。疑問なんてものは、飲み込んでしまえば消化器官が溶かして消してしまうのだから。

 自己の内面に巣食うニヒルと向き合い、封印ではなく脱衣を行うことは、夢から覚めることに似ている。存在した一つの次元を断ち切って、世界を上昇する。夢から覚めると、その夢の不条理を反省することになる。だから、慎重に言葉を選んで生きているのだ。誰も傷つけない柔らかさで。ひとに愛されるために。私はこれを新しい柔術と呼んでみる。敗北の論理ではない、ひとつの勝利のための格闘術である。ここのところ、その格闘を試しているものだが、技が手に馴染むまでは反省と反復を必要とするものである。相手の繰り出す拳さえ傷つけず、その暴力性を治癒することのできる柔術は可能なのであろうか。

 世界はなぜ美しいものとそうでないものに分かたれるのか。私はいつもそのことが気になっている。もしかすると世の中に溢れている普通さみたいなものと自分とが違うのではないかと、奇妙な感覚が背中にぴったり憑いて回る。ある時まで、世界と私は仲良しの双子であった。だが、ある時から恨み合う運命の敵となった。日に日に意見の対立が姦しくなる。一目惚れというよりデジャヴみたいな感覚だ。それらがぴったり噛み合うようなひとと出会うときというのは。実際は思い込みかもしれない。関係が上手くいくばかりでもないのだから。なぜ私の信じる美とひとの信じる美とが食い違うのだろうか。無用な争いを生む美に価値があるのだろうか。私の信心は正しかったのだろうか。

 

 長い廊下の情景が印象に刻まれている。誰もいない、薄暗く、明るく、古びた、清潔で、格式高い、使い古しの、終わりの見えない、切断と、接着によって、歪んだ廊下。私はそこを歩いていく。あるいは、そこでは廊下の方が歩いてくる。それだけのイメージ。いつから見始めたイメージなのか。いつまで見続けるイメージなのか。いや、所詮こんなのは情報に過ぎない。現実を与えられている訳ではないのだから。それだとしても、目に見えるものは、例えそれが幻視であっても、見えるということから逃れることはできないだろう。現実から逃れることならできるとしても。

 一日のほとんど可能な限り、ひとりでいる時間を確保するように心掛けている。この時間を私は明確に解毒と定義している。つまりひとといる時間を毒と考えている。少量の毒なら薬になると、詭弁を弄することも吝かではないが、好き好んで人体実験に身を供する好事家ではないということを予め断っておこう。自然は良い。人間が視界にいないというだけですこぶる体にイイ感じがする。などと冗談めかして言いたくなるニヒルな裏面を柔らかく。

 私はいずれこの街を脱衣する。これは計画だ。ある種の冬、あるいはある種の雨季のために今すぐの脱衣は叶わないだろう。だが、いずれは脱ぎ捨てる街なのだ。過剰な思い入れを持つ必要はない。機能が寄せ集まっただけの空虚な街へは。

 遠い海で探検家が死んだ。無謀を笑うのは勝手だが、きっと彼は満足だったに違いない。歴史やトロフィーなんか、まったく何のおもしろみもない。波に流される砂の城の方が忘れがたい印象をいつまでも残すのである。回転する星々の引力で、またしても夏が近づいている。窓から首を突き出せば、波の音が聞こえるような気がする。この窓のない廊下の夢から覚めたのならば、そうしようと思う。

眼窩底撈魚

「あ、死んだ魚が!俺みたいな目をしている!」と叫ぶ声。工場の壁の有刺鉄線の柵を乗り出す男の背中が、その日の作業中ずっと、目に焼き付いていた。帰りに遠回りをして壁の向こうを確かめたが、そこには死んだ魚はおろか、池も川も何もなかった。男の目は何色をしていたのだろうかということだけが気に掛かった。

 

 朝に目を覚まし、ほどなくして、酩酊のまどろみが冷めると、「あゝ生きているな」という考えが湧いてくる。感傷はない。俺の感傷はいつも仮面を被っている。そのうえ背中の後ろにいる。俺の感傷が鈍感なのは、幼い頃に心の閉じ込めを繰り返していたからなのだ。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、分からないことが多い。いずれにしても反射的に、セオリー通りに、仮面を選んで被る。そうして日々を過ごす内に、顔と仮面とが混濁し出して、自分というものを忘れた。

 漠然とした退屈と虚無感は常にある。その間を埋めるためにストレスを与え続ける。程よく間が埋まるから勉強は好きだ。理由をひとに聞かれたら尤もらしく嘯くけれど、さして目標はない。情熱というものを持っていた日があるのか、ないのか。それを恐れていた日なら、あったような、記憶。片や、植木には水と陽の光を与えるだけで十分なのだ。枯れようと千切れようと、ものを喋らず、根を張るだけだからあれには悪意がない。俺はあの植木のような謙虚のままでいたい。

 

 新しいセオリーを仄聞したため、書き残す。嘘をついて気に入られることが相手を思いやることになる、のだと。相変わらず俺には人間というのがよく分からない。一種のオープニングなのだろうと、とにかく覚え込む。少なくとも、そのように謙虚であることは、俺にとっては信用に足る正しさなのだった。分かったようなつもりで、ものを語る人々は何を分かったつもりでいるのだろう。そういうことばかりが、胸に引っ掛かるのだけれども。

 自由に踊れる愛が羨ましい。舞踏会の夜では、覚えなき書き置きに従って、愛を差し上げる、どなたでも、お望みとあらば。占いの如く大地に水平に構えた方位磁針は、延々と回っている。旅の頼りもそろそろ壊れたか。それでは文明を捨てて、自然な目でものを見ようか。そうするしかないにせよ。方向、前。地平線上に目が一対。対の目は水平、瞳は丸い。凝視ののち、目を回す。北か南か不明瞭な方角から、眩暈がやってきた。どうして方角が必要か?

 

 ほどなくして、朝一番のオープニング。窓を開けて、今日という日を自然な目で捉える。爽やかな陽の光。なぜならクレープ生地のような雲が直射光を拡散させて、眩しさで頭が痛くないから。小鳥が啼いているのだけが聞こえる。ということは、今日は仕事をしないでいい。間延びした時間は何に使うか、これから考えなければならない。

 このところ日記を書く気も起きない。考えることが減ったか、悩むことが減ったか、幸せに近づいたのか、遠のいたのか、言葉が消えたのか、啞になったか、悪魔がどうして失語するのか、不安は形態か、熱量か。自問を失念すると失語する。悩む所作が無くなったからと言って、不安が量を失うのではないだろう。殻を脱いだ気体が、むしろ捉え所なく足元に沈殿していくのである。どうでも良いことを悩み、取るに足らぬ擦過傷を言葉に置き換えられるうちは花……あ、花が咲いている……どこに?

……ともかく、ひとはそれに飽きる。泣けどぼやけど不安は消えないのに、それを語る仕草が同じままでは不安にまで飽きてしまう。詩が書けなくなるという、そんなに恐ろしいことはない。詩を書かなかったら、他に何を書けばいいというのか。名前や記号を? 俺の本当のものにまで、得意の色眼鏡で冷やかせば、大事な土地をひとつずつ売り払うことになる。ひとの心の中の土地、そんな下らない土地を買う者がいるとすれば、それは間違いなく悪魔だが、いまでは悪魔の方が繁栄している世の中。テレビは悪魔の道具だ。そんなのをありがたがって家に招き入れてはいけない。12チャンネル昼も夜も悪魔教育。頭の中で巨きなペンキ缶をひっくり返されて。

 

 夜。ストレスからの解放。繰り返す脱衣と着衣。他者は衣服だ。本だ、乗り物だ。ところで下らない流行り物の一張羅よ。虚飾に意味があるのか? 意味。意味ということを考え出すと、世界平和とか、世界遺産とか、そんな下らないことが……全部が下らないのは、俺の脳が壊れているからだ。理想のための修練の負荷に、どこそこの螺子が折れて。

 記憶を井戸の底に閉じ込めて、ポケットにその鍵を、まるで石ころが入っているような異物感のままでさえ、生活は進行するのである。ところで、その鍵は何を閉じ込めたのだったか? 朝、目が覚める度に痛みがする、体のどこかの傷。見えない場所を擦りむいて。寝ている間は世界のすべてを忘れられるというのに、陽が登れば、悪魔のベルが鳴り響き、人間に擬態した悪魔は号令に合わせてタンゴを踊る。朝からご苦労な奴らだ。

 

 いじめられっ子の嗜虐誘惑、vulnerabillityを持つ弱者男性にソフトな暴力を加える井戸端の醜態に不快感を禁じ得ない。曲がりなりにも学究の徒であるならば露悪を自省できないものかと、痰を吐いた。痰、なんてものを。水清ければ魚棲まずとは言うが、溝に生まれて溝に死ぬのがお望みか。お望みならば、存分に穢そうとも。上流から無造作に、美以外のすべてを投げ入れて。

 靴のもう片っぽは、弱者に寄り添いたいと言っている。できる限り、為になる限り、誰も死なない限りで。限られた中で、それだけれど自分の命を、一つ分の命を守るのも簡単ではない、ましてや。ええ、苦悩を知らないお前を軽蔑せざるを得ないのです。それさえも心苦しく。欲望する悪魔のお前を。誰かを傷つけることで溜飲を下げるお前を赦すことができず。傷が痛いから死のうなんてことを考えている人がいるのだから。世界から不安の消えた後でさえ、だれもかれも病と共に生きている。だから? 医者でもšamanでもない俺に治療ができるのか? 医者なら治療ができるのか? それを病と認めなければ薬の一錠も処方できないような歴史の途上で。

 

 獣のくせに、自意識なんてものを後生大事にしやがる。下劣な音響。その目と耳を一つずつ穿ってやろうかと思う程。堪えた咆哮が喉が破裂、窒息する、この怒りを語ることはどうすれば、嗚咽なしに……言葉に。 魔鏡の薄暗い奥から、獣の体内から、骨の穴の向こうから、お前が覗いている。俺は、その生々しい眼を見やしない。お前の骨は獣の檻。俺は眼を伏せ、孤立無縁のエゴイスムを隠す。お仕着せの鋳型が俺の遠吠えを縛り上げ後、チェストの何番何号に仕舞い込む。獣を殺す世界の果ての壁のように巨大冷え冷えとした灰色の。ダクトから送り込まれる酸素もまたコイン式。お前の悪意は世界を丸ごと仕舞い込むつもりか? 

 物言いの隙間、呪詛と理性の引っ掻き合う音、混じり合い、騒音になり、増幅する不穏、騒音の中で、微かに耳に入り込む、またしても、呪い……。口を閉じて、喉を鳴らして、獣であることを思い出して、呪いを塗り潰す鳴き声を。番うことだけが本来のものだから。

 

 お前が死んだらその目が欲しい。ホルマリンに漬けて、いつでも魂を確かめられるように。記憶は脳に刻み付けられた傷。幾度もそれを思い出し、幾度もそれを忘れようと必死になる。忘れるための随意筋が付属していないのに、それが可能であるかのように。傷に溺れるのは救いがない。喉の奥に突き刺さったまま抜けない魚の小骨が、いつでも俺に血を流させるためのスイッチになるのだな。お前はそんなことのために死んだ魚に成ったのか?

 傷を癒すのは確かに存在する物質、この手によって触れることを許されたもの。幻想によって立ち現れる霧では決してないのだ。手が僅かに冷気を掠め取るような、不幸な日常ではないのだ。救済の、あるいは呪詛のドラマの配役に身を投じよ。盲目的に、まるで物質と踊るように。