考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

幸せの話

 一人でも多くの人間に幸せになって欲しいと心の底から思う。勿論幸せな人間を見れば祝福の感情が湧き上がる。綺麗事、というよりは狂気染みた博愛主義のようなもので、私の存在に関わらず既に幸せな人間に対しては私は何も寄与する必要がないのだという安堵感から来るものである。それがどこからやってきた狂気なのか、私にはその源流が明確に分かっている。諦めと、僅かながらの恨み。道義的な教えであろうとも、幼な子に思想を植え付けることが孕む危険を理解しなかった点に於いて、我が母は愚物であった。私が自分の名前を嫌いになったのは、他者の為であれという名付けの呪いの為であり、宗教への拒絶と時を同じくする。音が先で字は後から決めたと聞いたが、よく考えれば母が宗教に染まり出した時期の方が幾らか早い。他者を救わなければという強迫観念。それはそのまま他者への恐怖と嫌悪に変わった。何故己の不幸を顧みず他者の幸福の為に行動しなければならないのか。私の幸福の為に行動する人間などいないのに。子供に我が儘を禁ずれば先か後か必ず歪みとなって現れる。現れた歪みが必ず私を苦しませる。だから貴方達は皆幸せにならなければならない。そして私もまた幸せにならなければならない。

寄る辺なき夜の泣言

 眠れない夜には眠れない夢を見たことにする。最近はよく眠れるけれど代わりに良くできた夢を見る。大抵良い夢は見ない。良い夢でも悪い夢でも一人で見る夢なら大して変わりはない。

 理由もなく疲弊している。いくら寝ても寝足りない。たぶん煙草を辞めた方が良い。記憶が飛ぶくらいお酒を飲むと何で記憶が飛ぶのか分かった。目を閉じて目から入る記号をシャットアウトすると時間は飛び去るらしい。感傷は圧縮できるから。酒の方は辞めなくて良いと思う。飲まないとやってけないから。

 今日の歩き方。軽く猫背にして肩を竦ませる。頭は65度。常に30m先に焦点を合わせる。腕は振らず胴体に沿わせる。後ろ足を引き抜く時は泥濘の中で水飛沫を立てないようにして前足を投げるときは踵から大股で踏み込む。重心は左右に小さく揺れる。何の意味があるかは分からない。

 鏡を覗き込むと以前よりは落ち着いた顔つきがある。昔はもっとなよなよして虚勢を貼り付けたような顔だった気がするが上手く思い出せない。写真も残していない。近頃は鏡も見なくなった。出掛ける前と後で一日二回くらい。

 波の音が聞こえる旅館に泊まりたい。海岸以外には出掛けずにただ寝ていたい。人生とは偶に海に出掛けないといけない気がする。やることも思いつかずに波の音を聞いている時間が誰にでも必要だろう。変なことはしないから女と一緒に旅行したい。それで何を考えるのか教えて欲しい。でも変なことしちゃうから駄目だな。

  恋人を作りたい。誰でもいいと思いながらも選り好みをする。浜辺の砂じゃなくて砂漠の砂なら貝殻とか硝子片とか不純物が入ってなくて裸足で歩けるからそういう人なら誰でもいい。前の人のことは今も好きだけどいつまでも苦しみたくないから忘れちゃいたい。

譫言

 毒と云うのは大変危険なものですから、例え空に向けてでも、ひとこと毒を吐くと空気は忽ち腐るものであります。どうしても毒を吐くのが抑えられないのであれば、他人様に迷惑を掛けずに便所などで済ませるのが礼儀というものですが、そう云う手合いに限って人目の多い処で毒突くのが何やら性癖のようなのであります。

 イマドキの若者は百四十文字にパッケージされた文章世界でものを思考しているようだが、これも非常に危険である。綴りがバラバラになるということは前後不順の散文化への傾向があり、論理を組み上げたり結論を導き出す能力が衰える。外的な時間によって綴じられた媒体を放棄するために、文章の連なりに構造関係を感知できなくなる。小説をトランプに印刷して好きにシャッフルして読んでみたら精神分裂者の手記にしかならぬ。時間という次元を輪切りにするのはこのような危険を孕むから、たとえ時間潰しでも細切れの文章世界には長居しないことです。

 最近思いついたことなのですが、我が国には「酢いも甘いも」と言う言葉があり、これによって甘いの対義語は苦いにはならぬということを証明するのであります。従って、「甘酸っぱい青春」か「甘くて苦い青春」の何れかが嘘ということになるのですが、私には甘酸っぱいというのは嘘だと思われます。苺は瑞々しい赤色に騙されがちですが、酸っぱいだけで実は甘くないのです。オレンジは甘くて酸っぱいか知らん?でも私の知る限りの青春は、オレンジのような味ではなくて、黒い包装のキットカットのようにほろ苦いものでありました。だから青春とは甘くて苦いのです。でもこれは私の青春ですから、普通一般の味覚では甘いの反対は酸っぱいなのでしょうか。

 外の世界が明るいと、目を瞑りたくなります。自分まで明るくならなきゃいけないような気がしてしまって辛いのです。殆ど常に自己嫌悪に苛まれている人生ですから、暗澹な心を白日に晒される事程の苦痛はありません。何かしなくては。何もやる気が起きぬ。働きもせずに飯だけ食らって碌に勉強もせず娯楽や妄想に耽って、苦しい苦しいと腑抜けて何も生み出さぬ、塵。己で己を煽るのは愚かですが、そうやって正気を保っているのです。憐れ。薄闇が恋しい性分なのであります。

 死ぬのも苦しい。何故死ぬのが苦しいか分かるかと申しますと、夢で見るのです。今朝も線路に落っこちてしまって、線路脇のスペースに身を隠そうと思ったのですが、ウン百屯の鉄の塊がすぐ側を掠めると思うと恐ろしくて、電車がやってくる前に這い上がって難を逃れたのですが、余りに恐ろしさに夜中の四時に目覚めてしまい、ホームドアのない駅舎には行きたくないと震えていました。

 生きるのも苦しい。資本主義の問題は、金を持つ人間が無尽蔵に偉いことです。そもそも資本と労働は等価交換ですから労働者だって偉さは同じ筈です。しかしながら、金を払うから靴を舐めろは罷り通るが、靴を舐めるから金を払えは通りません。遜ってお願いしなければなりません。金の方が偉いのです。これは全くもって変だと私は思うのですが、資本家の方が偉いので私の意見は通りません。酷い世の中だと絶望する他ないのです。

 主義とは資本主義に限らないが、先ず主義があって其れから物質がある。街にしても、家にしても、店にしても主義がなければ存在し得ない。翻って、主義があれば例えば自衛隊のような論理矛盾でも存在する。そうすると詭弁もまた論理なのです。

 少々脱線して参りましたが、人生とはどう転んでも転んだ分だけ苦しいものです。さすれば苦しみを癒す他に道はなし。我が国には「良薬は口に苦し」という言葉があり、青春とは苦いものであるという結論が先ほど出たばかりです。今日の薬は改良されて子供でも飲みやすいように甘く味付けしてあるものですから、甘くて苦い青春は人生に良く効く薬であるということに他ならぬ。結論を申し上げますと、私は恋をしたゐ。愛し愛されたゐと云うことになるのです。

花柄の話

 俺と云う一人称が好きではない。俺の「れ」が何だか命令形のような傲慢な響きがある。第一、女は使ってはならない一人称を現代社会では差別と呼ばずに何と呼ぶか。一人称に僕と言うのも好きではない。シモベと読ませる言葉を一人称にするのは気分が悪いし、目上の人間から強要される一人称であるからして暴力的且つ敗北的である。斯く言う理由で私は私を使っているが、女っぽい、カマ、粋がっている等と言われれば流石に敵わない。何故日本男児に於いてはこのように不便な一人称形態が罷り通っているのか甚だ疑問である。Iの一文字で済むものを、下級国民にはIの一文字では済ませんとする捻くれた精神性が垣間見える。

 言葉狩りは文化狩りであるから、一人称は明日から皆等しくIの一文字にせよという主張ではない。多様性は増やすものでも減らすものでもなく放っとくものだ。選択的に一人称を選ぶ事が許されていればそれで済む。然しながら日本男児社会に於いて下僕の僕と上司の俺という一人称形態は法律である。ハンコ文化並みの出しゃばり様式である。男女平等を叫ぶ気力はないが只々億劫である。その億劫を呪縛させたいという呪術性が日本人の根本に通底しているのであろうか。実際的には礼儀という言葉でラッピングされた呪術だけれども、客観的には綿々と来た伝統でもあるからその辺は大目に見ることにする。

 然し契約の存在しない私的言語空間に契約の論理を使い回すのは如何なものか。ここで初めて一人称のジェンダー論が立ち現れる。男の子なら俺、女の子なら私、そうしないなら「らしさ」を失うぞという脅しが教育に刷り込まれているが、それを鵜呑みにして公的空間ではない生活空間にまで流用するのは愚かである。僕っ娘上等、俺っ娘上等、私野郎上等である。らしさ教育から外れた振る舞いに後ろ指を立ててゲイだの何だの嫌味を言うのは馬鹿である。

 斯く云う理由で私は花柄の服や鞄を好んで身に付けるのである。

興白の話

 『人間一生誠に纔かの事なり。 好いた事をして暮すべきなり。 夢の間の世の中に、 好かぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚かなることなり。』

 私はこの度目出度く面白きことに人生を捧げることに決めました。捧げるという表現では献身に聞こえるが、此れは寧ろ一蓮托生です。人生の拠り所は人それぞれ、愛でも仕事でも美食でも肉欲でも何でも良いが、私は懐疑主義者であるから終わりのあるものは最後の最後では信じられない。面白きこととはまるで閃光のような快楽だからぽっと光ってはすぐに消えてしまう。しかし人生そのものが絶え間なく面白ければ終わりはないのだ。

 面白いという快楽を下支えするのは、終わりのない学問研究である。同じギャグで二度笑うのは難しい。新しい刺激を探し続け、刺激の新しさを解する舌と知識を洗練していく。物を作るということはそういう自己完結的な運動なのだと思います。狂信的なオタク道と劇的な破滅道、これらは現在活用中の二本の活路ですが、私にとっては二本は合流して一本のドラマツルギーになります。それはつまり語り部となることを不可避とする。初心通りの遠回りだったと後世では語るだろうか。

 兎角、私には面白いということにしか人生を見出せない。囚われているか救われているかはとうとう分からないが、畢竟愛を知らん哀れな男です。人生は楽しまなければ地獄です。楽しんでも苦行です。しかし苦しみ過ぎると頭がイカれるので頭は大事にした方がいいかと思われます。寝て暮すべしと思うなり。

 近頃夢で話した内容と本当に話した内容とが混濁気味なのですが、正味どちらでも変わらないでしょう。発話とは口から出て空に消えます。消える処が夢でも現でも呪いは自慰的に降りかかるのです。また小話ですが、中学の時分から”面白い”を”興白い”と書く癖がありました。中学の英語で”fun”と”interesting”が違うと言うのでそれをパロディしたもので、”面”という字がロボットみたいに変形して本領を発揮すると”興”になるという訳です。日本語とは不思議である。

 面白きことに人生を捧げる証として腕に言葉を彫ろうと思いました。この間人生で本当に大事な言葉に出会ったらと言いましたが、この事は非常に覚悟のある問題なのです。ヴァージンは敬愛する森見登美彦氏から引用させて頂こうと思っています。

 波風を立てて面白くするのよ。

圧力の話

 単細胞生物の死の瞬間の映像を見たことがある。死と同時に肉体と外界との境界の殻が溶解して世界と溶け合う。水中の生き物であるから、砂糖水のように溶けた肉体と世界とが究極的に混じり合って一つになる。”ハッキー”な喩えで恐縮ですが、下層ディレクトリが上層ディレクトリに移動されるだけで容量も何も変わらないという観念論を具体的に目にするとやはり印象的で、人間世界ならば臓物を路上にばら撒くということになると思いますが、そう考えると肝が冷える。実際にそうでしょうけど。

 PCのファイルの整理をしているとCからDなど、ドライブを越境する時は基本的に移動じゃなくてコピーということになります。操作としてはカット&ペーストで右から左に移しているだけですが、データは一度複製されていることになります。そうなると思考実験のスワンプマンのように、沼で死んだデータが雷によって再構成されているようですが、これだと順序が逆なので桜井画門亜人の断頭です。NFTのAI──向こう二十年で出てくると思いますが──に人格を与えてみても、断頭を克服することはできないのです。そう考えると我々の宇宙が一つの空間で良かったなあと思います。

 生命とは即ち囲いのことである。イクチオステガが地球史上で初めてその囲いを水の外に持ち出した訳ですが、進化論以降にキリスト教が発生していたらきっと罪深いとか何とか言われているに違いない。宇宙に囲いがあるかどうかは知らないけれど、人間的な生活観では空間には必ず囲いがある。辺りを見回しても囲いがないのは炎などの現象だけだな。空間とはVolumeであり、Volumeとは体積であり、空っぽな部屋にも空っぽなりの圧力がある。指を一本動かすだけでもその圧力を感じることができる。

 建築というのは様々なレベルの囲いのことだと理解しておりますが、建築を作るということは空間の内圧と外圧の強烈な狭間で形状を維持するということです。今触れているラップトップもバッテリーの電圧と発電所からの電圧の強烈なる狭間で形状を維持しているに過ぎず、バランスが崩壊すれば爆発してしまってラップトップの形状は不可能になる。家の裏の雑木林の方から吹いてくる南風が、寝ている間に窓硝子を悲鳴を鳴らして震わせるのですが、この雑木林がなければ家の形状の脆弱性は上昇する。つまり圧力の関係を念頭に置き事物を観察すれば事物に別の見方、あるいは本質的な見方が見つかるんではないかという問い掛けです。

 人間の作った物はどれも人間の肉体に合わせて作られていますが、これは子供の時分には想像していなかったことでした。自転車やスケートシューズのようなへんてこな形をした道具を見た時に、ふむふむこれは人間の形に合わせて作られているんだな、ということは感覚的に理解しましたが、家というのは拡張的な胎盤であり、外観は巨大でミニマルであり、家自体は外界にありふれていた為、それとは気づきませんでした。しかし人間の作った物は全て人間工学である。

 我々は胎盤の殻に守られながら発生し、宇宙の圧力に耐えられる頃合いを見計らって世界に誕生させられる訳ですが、鳥の雛とは違って自分の力で胎盤の殻を打ち破らないのでやっぱり性根の弱い生き物なのです。

刺青の話

 誰でも大体一回は不良だとか犯罪だとか、そういうアブナイ雰囲気に憧れるものだと思います。寧ろ普通の家庭だったり家が裕福だったり比較的に恵まれた環境で育った人ほどそういうアブナイものへの憧れがあるが、生まれた時から失うものを持ち合わせてしまっているが為に堅実な石橋から危険な濁流へと飛び込む勇気は中々出せない。しかしそうなってくると余計に濁流を泳いでるんだか流されてるだか分からない薄汚れた魚が儚く美しく思えてきて、益々憧れが募ってくるというサイクルに悩まされるのです。

 不良にも初級から上級とあって薬物やらは勿論あれですが、法律は犯さずに不良を体験できる様々なプランがあるものです。煙草やピアスなんてのはその中でも序の序の序の口でしょう。ファッション的な自傷行為自傷というのはある種の通過儀礼だと思うのですが、そういった儀式を通して大人になったような気になるというか強くなった気になるというか。何故かそういうことは原始時代から文化がありますね。

 私は二十歳になってから酒煙草などを呑むようになりましたが、法律は破らないのが信条なので真面目に二十歳まで待ったのですが。親にはこっちも何も言わないし向こうも何も言わないという感じで。大したことでもないし、怒られたくないだとかそういうことはないんですが、善良で普通の親に普通に育てて貰ったんだから善良で普通の息子を演じたく思い、煙草など見えにくい場所でやっていました。日本男子というのは母親に対しては出来のいい息子を演じたいものなのでしょうか。 法律の中でやってることですから身体に悪かったとしても倫理的に悪いこととかではないのですが。

 薬物と刺青の話。大麻とかLSDとか違法薬物は違法だからという理由で私はやりませんがやる人を否定もしません。私自身が物事の律を守りたいから守るというだけで、他人に迷惑を掛けない範囲の違法行為を咎めたいとは思わない。とは言っても合法ならいつか体験したいなとも思うんですが、有難いことに我が母様は私をとても健康な体に産み育ててくれたので、薬という薬をほぼ飲まずに生きてきました。注射も抜歯以外ではしたことがありません。それゆえ体に異物が入るということに過剰な恐怖心があって漢方薬くらいしか安心して飲めないのです。

 刺青は不良の中級プランではありますが、勿論違法じゃない。一種のファッション。健康侵害ってこともない。数日間痛いとかその程度。誰に迷惑を掛けてる訳でもない。だけれども、日本では根強く偏見がある。怖い絵とか或いは死ね殺すとか暴言が描いてあるんならそれは怖いですが、禊的なあれでヤクザがみんな入れてるから怖いだとか、怖いのは刺青じゃなくてヤクザじゃないか。極道の住人と善良な市民とを見分けるタグとして機能している現状ではそういうことを言うのも難しいですが。不良の方も不良の方で刺青を通過儀礼として運用している向きもあるのでどうにもならない。つまり刺青本来の美しさがどっかに行方不明になっている。刺青の美しさとは、何某かの絵または何某かの言葉と一生を共にする覚悟である。痛みも伴うし、入れられる数にも限りがある。温泉だって入れない。

 要するに私も刺青を入れたいなあという話なのですが、親が生きている間は控えようと思っている。親から貰った身体は大事にしたいというか、親そのものを大事にしたいというか、やはり不良な姿を見せたくない。なら見えないところなら入れてもいいかもしれないけれど。それにしてもちゃんと自分で稼いで自分で生活できるようになってからじゃないと格好が悪い。

 しかし今のところ一生体に刻みたいなという言葉が思いつかない。座右の銘も考えたことがない。だから私にとっては不良への憧れなどではなくて、一生を共にしてもいい言葉と出会いたいというのが正確なところじゃないかと思う。手前の名前とは一生の付き合いではあるが、他人が付けたものだから実はあんまり好きじゃない。だから自分にもう一度名前を付けるかのような気持ちで本当に好きな言葉を刻みたいと思ふ。