考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

形而上女子高生

「もしもし、かめよ。かめさんよ。せかいのうちに、おまえほど、あゆみののろい、ものはない。どうして、そんなに、のろいのか。」

「なんとおっしゃる、うさぎさん。そんなら、おまえとかけくらべ。むこうの、こやまのふもとまで、どっちがさきにかけつくか。」

 

 バットマンスパイダーマンのどちらが強いかという競争ならば誰しもの興味のあるところであるが、兎と亀はどうして競争をする必要があったのであろうか。兎はどうして亀を嘲笑する必要があって、亀はどうして不利な喧嘩を買う必要があったのだろう。今日のように怒号と情けとが混淆する乱痴気騒ぎの世の中では、そんなことばかりが気になってしまう。

 誰かを馬鹿にするものは、自分に自信がない。彼は、いまだ何も成していないにも関わらず、何者かになれると思っている。そう思ってはいるが、非言語の心象において彼の焦燥感は夜な夜な嵩を増すばかりで、自尊心と劣等感の板挟みに苦しんでいる。またあるいは、彼は自分に酔っている。産まれ持った性質、財産、家柄。彼の鍛錬や節制によって得られたものではないのだが、彼はそれに自信を負っている。産まれ持ったものであるからこそ、それを持たないものを気味悪がって非道く憎むのである。このような都合から、彼が自らの精神を正常に保つためには潔い自己愛だけでは足らず、愚鈍な何者かを口やかましく罵って悦に浸る必要があるのである。

 一方の亀もまた心根を曇らせている。己の健全な精神にとって害を成す他者というものは実際いくらでもあるわけだが、それらを拒否し、関係を断絶させることができるかは、必ずしも彼の望む通りにはいかないものである。小さな社会に住んでいたり、仕事上での関係があったり、この際事情はあえて詮索せずとも彼が兎の罵倒に耐えて日常生活を送らねばならなかったのは想像に難くない。平穏に慎ましく暮らしていたところに、心に歪みを抱えた童がやってきて傍若無人を振舞えば、その毒が蔓延して、穏やかそのものであった彼の心の奥に眠っている暴力性が膨れ上がるのは免れ得ないことである。

 これらの入り組んだ事情から、毒々しい口争いを発端に何とも奇妙な競争がマッチアップされるわけであるが、その結果はいわんやご存知の通りである。結局この争いが生み出したものと言えば、敗北感を植え付けられた兎と自尊心の肥大化した亀とであって、どちらにしても救いがない。兎と亀は結局のところ憎しみ合う運命の中で同類なのである。彼らはただ別れを告げて、あるいは黙って、どこか別の場所で暮らせばよかったのだ。そうしなければ、いつまでもその歪な精神が治癒されることはない。彼らがそこまで利口ではなかったという、それだけのことではあるが、我々の世界の不条理は、大抵は決して到達しない内的世界同士の戦争状態のせいなのである。たとえばそこに一本の石壁を引いて、あるいは一掬いの海を置いて、精神同士が摩耗し合うような事態を避けるように努力するべきだったかもしれない。相手を打ち負かしてトロゥマの心象を植え付けたところで、己の精神がますます荒んでいくだけだ。兎は兎どうしで、亀は亀どうしで力比べなり何なりをしていれば、このような歪を歪で相殺する荒療治に遭うこともなかったのであるが、争いというものの末路は大抵は不幸なものである。

 

 

「十進数の0.1は二進数では無限桁になるけど、三進数の0.1は十進数では無限桁になるのって報われない三角関係みたいで面白いよね。」

 と、マックで女子高生が話しているのが聞こえた。昨今の女子高生はあらゆる分野の雑学にどうしてか精通している。当然ながら、ここで言う女子高生とは、ディスクールのためのインターフェイスであって、彼女たちは情報伝達の霊媒師なのである。空っぽではあるが、どこにでも偏在している。要するに言語そのものである。下らないことばかり考えるのが板についているが、近頃の私はフランス現代思想を読み漁る日々だ。

 幸福というやつの正体は中々掴みどころのないものであるが、例えば非不幸という概念に置き換えてみれば、いくらか目星がついてくる。不幸というものは、天変地異を別にすれば大抵は人間が運んでくるものである。しかも、ある一定の決まった人間だけが不幸の運び屋なのである。この世の中では不思議な数字の論理が働いていて、あるものとあるものとではどうしても必ず比例するらしかったり、秘密の数式が発見されて魔法のような技術が実現したりする。直感に反するようなことでも、その結果に収束するということは背後で何某の論理が働いている。かつてはそれらが妖怪と呼ばれることがあったり、何某かの化け物の仕業ということに片付いていたものであるが、いずれにしても不幸や災いは人間の形をしているのであった。

 この地上に一本の電話線を引いて以来、ひととひととが過剰に聯絡を求める時代も来るところまで来たと暗澹たる気持ちになるが、技術そのものは非人間の形をしているために私には心惹かれるものである。ラカンによれば、乳児期の身体認識では、切断された機能群は統合されず横並びになる。それぞれは独立して関連性を持たない。そして、イマーゴと鏡像との接触を以て、乳児は人間への変態を始めるのである。私はこの切断された機能群ということに、人間以前の宇宙性、人型に化ける前の形而上世界への入り口を認めている。我々の仕事においては、開発された機能群は最終的にはヒューマンインターフェイスプラグインされて完成の形を取るのであるが、それらのプロダクトを構成するフレームワーク、むしろ十本指と言語機能とに基づいて形而上世界に建てられた空中工場、そういった実体を相手取って脳味噌を働かせていると、非人間の切断された身体に後戻りするかのような不思議な錯覚、ワンダーランドに転がり落ちていくような、そういった非不幸をどうやら私は手に入れたようである。

 

 私のささやかな夢は何人かの本当の友達を作ることだ。ささやかな夢は他にも無数にある。非不幸がいくつか寄せ集まると幸福になるのだと信じている。そしてそのかけがえのない幸福のためには、不幸と関係するものは切り捨てていかなくてはならない。子供の頃に大事にしていたものでも捨てていかないと、大人の身体にはいささか手狭になった部屋は一向に片付かないものである。心象とはつまり傷であって、それは網膜からやってくる。視覚的印象は空想に対してのみならず、神経系そのものに刺激を与える。神経の急所と深く結びついたイマージュは確かに存在する。不幸の残像を掻き消していくために、過去と、過去という概念さえも白いペンキで塗り潰して、心象を塗り潰して、最後には真っ白いページのような心象風景が残るのだろう。そして本を閉じると、内的世界は本棚の奥へ吸い込まれて、忘れられた置き物になるだろう。