考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

窓のない廊下

 我々の仕事というのは無いところに煙を立ち上げるものだ。負い目を感じても仕方がない。生きていかなければならないのだから。存在と不在を好き勝手に入れ替えて猿を騙す手品。まるでスキゾな不安を詰め込んだお菓子の箱だ。甘い匂いだけして、ひとつも食べられやしない。追い詰められたら、ひとは空気を食べる。こうやって、妄想で。こんなのは人間の幸せなんかじゃない。存在に金がかかるのと、生活に金がかかるのとは違う話だ。存在税なんてものを始めたらいよいよだ。大地がなければどこへと歩くこともできないだろう。あるいは空中歩行を習得するにしても、脚の回転運動のための膂力はどうして既に身に付いているのだか。もしも生まれ育った不作の大地に嘆くのならば、植民地を支配すればよい。それが人間の傲慢なのだから。

 こんなにもいかれたつまらない街で、ひとがどうやって正気を保っているのか、私にはひとつも分からない。普通に健やかに生きるなんてことは、特に。区画化を加速する暴力機械に反抗して、自分らで遊び場を作り出さなければいけない。砂場、原っぱ、空き地をひとつ。人間は人類に対して勝利をしなければならない。非存在が存在を脅かす悪霊的なエーテルへの戦いという、些か難解なものであろうとも。

 チェス盤の8マス四方は32の駒に対して2倍の空虚を確保されており、その空虚が複雑な運動を作り出すのである。ひとの世界がチェス盤の次元なのだとしたら、そこではただ区画化された水平運動があるのみで、あらゆる人間的営みを排した道路交通の世界でしかなくなっている。この世界の大地にはマス目などない。地面にマスを描いたいかれた街は、ダイアゴナル・ランで陣形に混乱を生み出そう。馬鹿げた都市を瓦解させる、なんらかの有効なアイデア

 貨幣経済や政治体との別次元のレイヤーで新しい経済を作り出すには? 新しさというのは重要ではなく、ボイスの言うような芸術の経済として。芸術ではないものが芸術なのだから、あるいは芸術でなくても構わない新しい経済を。人間の退屈が作り出す回転運動、ヘテロドックス・オポジションの短期記憶のために退屈する8マス映写機。戦場が踊り場に変貌するのは記憶の長さにおいてのみである。それならば、双方の合意に従って和解陣形を解消し、闘争と遊戯への漸近的移行を、顔と顔との間で交わされる微笑によって誘惑する。その場合では、高度な知性と好奇心の繰り出す奇妙な舞踊であるのかもしれないが、平面機械の可能性の遊戯は、退屈を凌がせるひとつの趣味なのである。あるいは誰かの、ひとつの趣味が皮切りとなる別なる回転機械の拡張性を発見する、それが人生だ。

 新しい経済の到来する方角は、まさにこの目と鼻の先であろう。ボイスの読解かあるいは曲解によって始められる、この新しい何かについて、人々は既に予感し、到来を切望している。焦げる恋心の匂いに気づいて、その出処を思案する眠れる奴隷への、目覚めの発破。残念ながら夢みられた映画は爆発で幕を閉じるのであった。目覚めた奴隷は本当の現実に出会い、心を躍らせるだろう。それとも、みずからの手で映画を撮り始めるだろうか。どちらにしても、彼は初めて他者と出会い、支配を免れた楽園を創造するだろう。彼の類まれなる創造性と正義と知性によって。

 

 品格と言うときには、格とは格好のことだから、それは外観を指し、品性と言う時には性とは本性のことだから内観を指す。品があるというのは素晴らしいことだ。高級レストランで才色兼備なテーブルマナーを御披露頂くのも大変結構なことだが、それはあくまでも格好なのだから、誰がそこの会計を持つかという点については? 貴族がジャラジャラと財布を持ち歩く道理もないし、額に汗を流して産み出した富でもなんでもない。俗な現実は品格からは程遠いものだ。ゆえに彼らは本質的に階級格差を容認しており、促進さえしている。Noblesse obligeなどと宣えども、率直に言って人間の正義に反すると、一介の東洋人としては苦々しい気持ちになる。

 方一方の品性に関して言えば、それは本性なのだから、外観には現れたり現れなかったりするものであるが、川の流れる音のように、何処かの森の奥では必ず首尾一貫して響いている。品性を心に保っていれば奴隷であろうが没落貴族であろうが関係なしに、ひとつの確固たる人間性をその身に宿していると言えるだろう。

 幾らか東洋的なものの考え方であるかもしれないが、要するに私は品性というものが好きだ。それは各人の不断の努力によってのみ獲得し得るもので、親か誰かに流されて得ることも、金で買うこともできない。人間の核心とも言うべき真善美に関わる世界の本質の話である。人工ダイヤなんてものが可能になってからダイヤモンドの価値が失墜したように、宝石は人の手で作り出せないことがその価値である。手を焼かれた愚息も愚息、政治家の末裔などのNoblesseも容易に俗に廃頽するものだ。家柄や経済力に関係のないひとつの人間的指針、それが品性の素晴らしさであり、難しさである。

 詩も文学も好みで言えば品があるか否かだが、人文学に限らず人間一般においても同様だと肺腑に染みる。舌が肥えて良いことも少ない。現世を生きる者たちに期待を込めても仕方がないように感じ始めてしまう。軽率な自己正当化に与する愚かさなど……。ともあれ、他人に失望するのは簡単だ。「だから、どうするか?」それを問わねばならない。前を向いて生きていくためには。ならば、後ろを振り向かず、前だけを見て生きる必要はどこからやってくるのか。言わずと知れて、その先は坩堝。形而上学は、およそひとの精神が耐えられる世界ではない。偽物でも即席でも満足できる、俗物根性をインストールしなければならない。疑問なんてものは、飲み込んでしまえば消化器官が溶かして消してしまうのだから。

 自己の内面に巣食うニヒルと向き合い、封印ではなく脱衣を行うことは、夢から覚めることに似ている。存在した一つの次元を断ち切って、世界を上昇する。夢から覚めると、その夢の不条理を反省することになる。だから、慎重に言葉を選んで生きているのだ。誰も傷つけない柔らかさで。ひとに愛されるために。私はこれを新しい柔術と呼んでみる。敗北の論理ではない、ひとつの勝利のための格闘術である。ここのところ、その格闘を試しているものだが、技が手に馴染むまでは反省と反復を必要とするものである。相手の繰り出す拳さえ傷つけず、その暴力性を治癒することのできる柔術は可能なのであろうか。

 世界はなぜ美しいものとそうでないものに分かたれるのか。私はいつもそのことが気になっている。もしかすると世の中に溢れている普通さみたいなものと自分とが違うのではないかと、奇妙な感覚が背中にぴったり憑いて回る。ある時まで、世界と私は仲良しの双子であった。だが、ある時から恨み合う運命の敵となった。日に日に意見の対立が姦しくなる。一目惚れというよりデジャヴみたいな感覚だ。それらがぴったり噛み合うようなひとと出会うときというのは。実際は思い込みかもしれない。関係が上手くいくばかりでもないのだから。なぜ私の信じる美とひとの信じる美とが食い違うのだろうか。無用な争いを生む美に価値があるのだろうか。私の信心は正しかったのだろうか。

 

 長い廊下の情景が印象に刻まれている。誰もいない、薄暗く、明るく、古びた、清潔で、格式高い、使い古しの、終わりの見えない、切断と、接着によって、歪んだ廊下。私はそこを歩いていく。あるいは、そこでは廊下の方が歩いてくる。それだけのイメージ。いつから見始めたイメージなのか。いつまで見続けるイメージなのか。いや、所詮こんなのは情報に過ぎない。現実を与えられている訳ではないのだから。それだとしても、目に見えるものは、例えそれが幻視であっても、見えるということから逃れることはできないだろう。現実から逃れることならできるとしても。

 一日のほとんど可能な限り、ひとりでいる時間を確保するように心掛けている。この時間を私は明確に解毒と定義している。つまりひとといる時間を毒と考えている。少量の毒なら薬になると、詭弁を弄することも吝かではないが、好き好んで人体実験に身を供する好事家ではないということを予め断っておこう。自然は良い。人間が視界にいないというだけですこぶる体にイイ感じがする。などと冗談めかして言いたくなるニヒルな裏面を柔らかく。

 私はいずれこの街を脱衣する。これは計画だ。ある種の冬、あるいはある種の雨季のために今すぐの脱衣は叶わないだろう。だが、いずれは脱ぎ捨てる街なのだ。過剰な思い入れを持つ必要はない。機能が寄せ集まっただけの空虚な街へは。

 遠い海で探検家が死んだ。無謀を笑うのは勝手だが、きっと彼は満足だったに違いない。歴史やトロフィーなんか、まったく何のおもしろみもない。波に流される砂の城の方が忘れがたい印象をいつまでも残すのである。回転する星々の引力で、またしても夏が近づいている。窓から首を突き出せば、波の音が聞こえるような気がする。この窓のない廊下の夢から覚めたのならば、そうしようと思う。