考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

宿木姫

 私が私だった頃の事を思い出す。私の人生は喪ったものを取り戻す旅路だった。そして喪う為の旅路だった。どこからか降ってきた涙が目を潤した。きっとお空の誰かが泣いたのだろう。私は哀しくないのだから。

 段々と目が醒めていく。夢のような真っ白なドレスを着ている。今日は人生一度きりの晴れの日だった。ドレスに似合うような素敵なお化粧をしないといけない。鏡の向こうの世界、花嫁姿の虚像の奥にある不在へ問いかける。

「あなたはまだ生きているの?」

 はい、か、いいえ、で答えて欲しい。私はそれだけを知りたかった。

*  *  *

 足元を照らすと道が続いていた。鉄道のように、枕木が永遠に等間隔に続く道ならばどこへ続いていようが別に構わなかった。だが道はとっくにレールでも何でもない構造物の紛い物で、遠目から見るとそれとは気付きにくい精巧なものだった。

 物質界において道とは先人が作ったものだが、私が今居るところは物質界とは似て非なる世界で、あらゆる構造物を観察すると逆進的に物質に還元することが難しいアプリオリだった。この世界においては雛は卵から孵ったのではなく、雛は雛として誕生していた。雛が親鳥になることは永遠になく、親鳥が暖める卵は永遠に孵らなかった。私にとってはどれもただの食材だ。存在が循環することはあり得ないが、ある意味では完成されている。然しながら、この道の紛い物は、その最果てに辿り着くことが永遠にない形而上体であるだろうか。そうとしたときにこれは道と呼ぶべきものだろうか。多分、既にもう違うのだろう。道によく似た、けれども確実にそれとは異なる得体の知れないものを私は地面として了承していた。そうでなければ存在さえもままならないのだから私にはそれを拒絶する術はなく、その存在の故に道の上を独り、歩き出していた。

 道中多くの人間に出逢った。誰もが個性的でみなそれぞれの輝かしい人生を邁進していた。けれども、私はその内の誰とも心の底から理解を交わすことはなかった。道は接近することはあれど、決して交わることはない。彼らの道が被造物なのか、それとも私のものと同じ発生物なのか。私はそのことを知りたかったが、当然遠目で見る分には構造的な道の上を歩いており、真実を観察することはできなかった。ふと背後から近付く足音。横に並ぶ。綻んだ面構えの婦人。声を掛けてみる。

……ごきげんよう……ごきげんよう、御嬢さん。どちらからいらしたの?……どちらからというのは覚えていないの……あら、そうなの。では質問を変えて、これからどちらへ行かれるの?……どちらへというのも知らないんです……難儀なのね。私はこれからヨーロッパへ行くのよ……ヨーロッパのどこですか……まだ迷っているの。ドイツかオーストリアか。でも途中までは一緒だから……素敵な道を歩いていらっしゃるんですね……ええ。私は素敵な女性になりたいの。あなたには夢はあるのかしら……夢。夢。なんとなく懐かしい響き。私はそれを探しているのかも知れません……そうなのね。見つかるといいわね。私先を急ぐので、ごめんあそばせ……さようなら……

 行き交う人々ともう少し短いやり取りが何度かあって、私はそれらに退屈していた。どこまで行こうともこの道は紛い物なのだ。偏にその記号の故に私は歩くことを余儀なくしていたが、疾うに私は歩くことに飽いていた。もっと大事なことを忘れているような気がする。歩くか休むかしかない一本道のこの世界に私の身体は馴染んでいなかった。私の居るべき場所はここではない。横道のない代わりに、道の右側と左側には光の一筋さえ通らない暗黒が拡がっている。寝そべって手を伸ばしてみる。何にも触れられない。ポケットに入っていたコインを放り投げてみる。コインはどこまでも落下して行って、点になって、それから消えた。道の先にも道の下には何も存在しないのだ。私は途端に全てがどうでもよくなって、果てのない一本道から飛び降りた。

*  *  *

 そこは女と動物の匂いの充満する1LDKだった。絨毯には請求書と診断書が乱雑に拡げられ、ローテーブルには灰皿、無数のライター、空き缶、まだ入った缶、錆び付いたカッター、絡まったイヤフォン、包帯、軟膏、笑顔の少女の写真。多分この部屋の住人だろう。彼女は居ない。どこへ行ってしまったのだろうか。

「タビダッテシマッタヨ」

 声のするのはドアの脇の重ねられた黒い檻の中。トサカがやけに長い、白い鸚鵡が調子外れな声で話しかける。

……どこへ旅立ったの……タビダッテシマッタヨ……どこへ……タビダッテシマッタヨ……君はそれしか言えないんだね……タビダッテシマッタヨ……教えてくれてありがとう……ケレドモワタシハオリノナカ……ごめんね、君を出してあげていいものか分からないんだ……ケレドモワタシハオリノナカ……

 冷蔵庫の側のメタルラックに鳥の絵と英語の描かれた袋を見つけ、封を開ける、仄かに酸味掛かったドライフルーツの香り。餌入れに山盛りに注いで檻の中に滑らせる。羽搏いて興奮する鸚鵡。

……ご主人様が帰ってくるまでこれで我慢してね……ガッツクナヨガッツクナヨ……

 私の右手はドアノブを掴む。既に私は紛い物の道を歩いてはいない。踏み均された道はなく、行き先は自分で選んでいかなければどこへも辿り着けないのだ。鸚鵡の言う通りこの部屋の少女が旅立ってしまったというのなら、私も旅に出掛けてみよう。そうすればきっと夢が見つかるはずだ。私は鉄のドアを押す。隙間から閃光が目に飛び込む。この光の先が私の居るべき本当の世界なのだという予感を信じる。

*  *  *

 行き先もなく旅をした。お金が無くなったら路地裏で体を売った。特に辛いとは思わなかった。少なくとも夢に向かって進んでいるということが確かならば他のすべては些末な事象として受け入れた。私の夢。きっと素敵な夢なはずだ。私はそれを見つけるだけでいい。ある冬の日に薄着で路地に突っ立っていると、珍しく清潔そうな若い男が話しかけてきた。

……君、どうしたの。寒くないのかい……ホベツイチゴ。やりたいの……帰る家はあるのかい……家なんかないのよ。私は旅をしているの……旅を……それで。やるの。やらないの……行くところがないならうちへ来ないかい。今日はおでんを作るんだ……おでんって何かしら……君、おでん食べたことないの。温まるよ。さあ、おいで……

 若い男は黴臭いジャケットを私に着せるとを手を掴んで強引に連れ去った。ごつごつとして乾いた、冷たい手。おでんって何かしら。肉料理?魚料理?そんなことを想いながら男に付いていく。男は木造アパートの狭いワンルームに住んでいた。小さなベッド、観葉植物、沢山の酒瓶、テレビ、テーブルには料理の雑誌と小説の単行本。比較的に片付いた部屋。

……少し時間かかるからくつろいでいて。お茶かココアでも飲むかい……ココアって何かしら……ミルクとチョコレートを溶かした飲み物だよ……へえ。不思議ね。それ頂戴……旅をしているって言ったけど、どこから来たの……どこからというのは覚えてない……なら目的地はあるの……夢を探して旅をしているの……夢か。君は変わってるね……これがココア?熱いのね。甘い……お風呂も使いたかったら使って。着替えも貸すから……

 若い男は私に優しくした。きっとセックスがしたいのだろう。私はシャワーを浴びる。私はいつも排水口に流れ込む水の渦を眺めている。黒い穴に飲まれる水はどこへ落ちていくのだろうと考える。ステンレスの蓋を開ける。既視感のある黒い穴。水はどこへ行くのだろう。私も連れて行ってくれないだろうか。私は吸い込まれるように、穴へと落下していった。

 私は柔らかいベッドで眠っていた。隣には若い男がいる。男は何故だか微笑んでいる。

……おはよう。大丈夫かい……ここはどこ……僕の家だよ。ご飯も食べずに寝ちゃってたみたいだから……そう。お腹空いたわ……鍋温め直すよ……私、夢落っことしちゃったの。だからずっと探してる……僕も夢を失くしちゃったんだ。だから君のことが気になったのかもしれないね……何の夢失くしたの……幸せに生きることかな……私とセックスしたい?……そういうのじゃないよ……じゃあ私と結婚したい?そしたら幸せに生きられる?……君はどうしたいの……私は夢を見つけられれば他はどうでもいいの。どこから来たかは忘れたけれど、大事なのはどうなりたいかの方じゃないのかしら……よければ少し一緒にいてくれないかい。君のことをもっと知りたい……

*  *  *

 一年ほどして男は私と結婚した。男は夢を見つけたと語った。男の見る夢を、私は自分のものにすることにした。男の勧めで私は病院に通った。医者の診断では私は過去の私とは別の人格ということらしい。投薬とリハビリを暫く続けたが、以前の記憶を取り戻すことはなかった。もはや私にとって私がどこから来たかということなど些末な事実だったが、紛い物の私に乗っ取られた過去の私がまだ生きているのなら、彼女は何を想っているのだろうか。彼女の本当の夢は何だったのか。何度問い掛けても答えが返ってくることはなく、私は罪悪感を忘れた。