考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

自動販売機の影にて

 気がつけばもうずっと、闇に頼っていた。闇によって産み出されたものが素晴らしかったとして、力を誇示し、己の肯定を続けるために、ますます闇に救いを求めるようになる。無尽蔵にも思える闇の源泉は、淫魔のように魅力的に目に映るのである。けれども力の反作用はそれ以外の部分、人間的な部分を蝕んでいく。その頃の私は、薬物依存者のように不健康だったことだろう。果ての見えない下降の底に小さく灯る明るい希望に酔い痴れた。その小さな焔に近付こうと前に進んでいるような感覚が、ある時を境に、本当はただの垂直落下の風圧ではないかと疑うようになった。星空のように遠くに確かに存在すると言われても、それは既に、紙に絵の具で描かれた書き割りにしか思えないのであった。あの時、もうすぐのところに見えたように思えた希望は、もしかすると本当に、本当の希望だったのかもしれない。ただ、それを手にするよりも先に身体がぼろぼろになってしまうような気がした。不確かなものに向かって盲進するには、少し歳を取り過ぎていた。それからは特に迷うこともなく、光とともに生きていこうと決めた。


 青空や青春といったものには不慣れな体には、夏の強烈な青い光線が馴染まず、いつも薄目を閉じてしまう。それはまるで青空のように、ほとんどすべてが否定しようのない厳粛な正義という言葉。言葉はひとの作るものだ。だからこそ正しさとは何だろうと考える。無能で安価なお茶汲みロボット。情報で肥えさせられた空っぽの家畜。ものと言葉をボンドでくっつけた粗雑な売り物。エトセトラが目に余る。道理の疑わしいものであっても、愛想笑いと共に受け入れていかなければならない世界の仕組みに、この身体はまだ拒否反応を示している。時折、思い出したように自動販売機のつくる影の中に郷愁を感じる。それは一体どの記憶を思い出していたのか。郷愁というよりも違和感のような何か。それを思い出す間もなく信号は青に変わり、陽炎に歪んだ光の下にふたたび足を踏み出していく。ただひとつ確かなことは、黒いアスファルトに白線が引かれている。決して逆ではない。


 普段は人でまばらなホームが人で溢れているということは、近くの路線で人身事故があったのだろう。繊細な表現をするべきではあるが、やはり事故と言ってしまうと胸につっかえが残る。身投げなんて言ってしまうのはもっと気が滅入ってしまうだろうけれども、忘れ物を取りに戻るのと同じ程度の時間、たかだか数分帰宅が遅れるに過ぎない。ひとの命がたかだか数分に化けるのだ。忽然と消えていくものが多いにせよ。そうだからと言っても、嫌な気持ちと苛々が湧いてくるのは遣る瀬ない。どうせ死ぬなら、などと、そういう言葉が浮かんでしまうことが、何よりも貧しい。死人には、現世がどうなろうと知ったことではないのだから、心を尖らせるのは無駄だし、死体蹴りをするような卑しい荒んだ人間に成るなよと。それらの感情とは別に、産毛の上でそわそわする気持ちの理由を考える。時間が無駄だとか、どこまでも自己中心的な、人の命に関心のない冷え切った鉄の心、責任感のない電光掲示板を流れていく解像度、不愉快な産毛の感触は、言葉にならないままで記憶された既視感なのだろう。いつからか何かがおかしくなった漠然とした現実が、心の鉄を刀鍛冶のように一心不乱に鍛えるのは、何を不純物として取り除くためであろうか。あるいは、誰を討ち殺すためであろうか。型に鋳れて大量生産される、悪意もなければ善意もないような人間が、死体蹴りをする人間と何が違うと言うのか。もしも人の心がまだあるのなら、名前も顔も知らない誰であれ、命が化けた数分くらいは黙祷を捧げればいい。感受性の欠落した人間がどうして死体と違うと言うのか。

 

 やたらと月の大きく見える満月の夜。あの月は綺麗だろうか。花鳥風月に感じ入るほどの心のゆとりもなく、足元を照らす以上の価値は感じられなかった。床に入っても眠りにつけず、頭だけが疲れた日に時々あるように、目を閉じたまま宵の明けるのを待った。言葉を話すのを抑えて生活をしているためか、雑然とした止めどない情念が浮かんでくる。昼間にビルの窓から見た横断歩道の白線を貼り直している人たちのこと。覚えていたら後であの白線を踏んでみようと思ったのにすっかり忘れて帰ってしまったこと。白いカラスもいるからカラスは白いと自慢げに語るひとのこと。あるいは白いカラスもいるからカラスが黒いのは差別だと叫ぶひとのこと。幸せそうな人を見ると、この人たちは他の誰かから幸せを奪って生きているのに、あんな風に笑えるんだと思ってしまうこと。白と黒。闇と光。意気揚々と明るい未来に向かって舵を切ったにしては、相変わらず貧しい心だ。闇に頼らないで生きようと決めても、決めたことをどうして何度も迷うのか。そんなことで何かを決めたと言えるのか。闇と光の交代する明け方、またしても救いのない、太陽の空回りする光線に行き場のない雑念は掻き消される。身体の疲労のままに熟睡していた頃を懐かしく思いつつ、だらりとした身支度が行われる。


「花を愛でるのは人間だけだから」

 

 不意に飛び出す言葉には自分でも驚くことがある。言葉少なに生きていると口が言うことを効かないものだ。気取ったことを言いながら、花に眼を向けていない自分に気がつくと、どうしてそんなことを言えたものだろうと考えてしまう。綺麗なものは、見ようと思えばそこにあるのに、どうしてそうと気づけないのだろうか。余裕のない心。じめりと肌に吸い付く不快感と、過ぎ去るだけの時間の速さ。食べ残しのわずかな時間にさえ、頭のおかしくなった老人の話に付き合って、鼓膜の中に今にもはち切れそうな風船があるんじゃないかという気がしてくる。小さな歪の段差が積み重なって、貯め込んだ腹の中が傾いてくる。キャラメルチョコレートのように甘ったるい粘着質も、肉の輪郭をねぶるような汚い眼付きも、壊れた時計も、繋がらない電話も、鼻で笑う豚も、全部が全部、どうしてつきまとうのだろう。結局、光とともに生きるということが、そうしようと思ったことさえも冷たく笑えてしまうほど、馴染まない。ひとを憎むのがどれほど易いか。サイコキネシスも空中浮遊もできやしない。意志だけでものを変えられるわけではないことなど、20世紀の昔からとうに分かりきったことだ。そうだとしても、自分の生き方くらいは自分で決めようと思うのは、もう理由を書かなくてもいいだろう? ただ、こんなにも暑い日には、ほんの少しは休みを取ったって構わない。コカコーラの自動販売機の影で、馬鹿げた青空から身を隠して。当然、いずれは光の下にふたたび歩き出していくものとして。