考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

暗黒は斯く独り言ちた

 逆恨みをしたダニが腕や脚を這うようで、ダニ殺しのパッドを寝具に忍ばせた。虫の好みそうな、風変わりな、不快な甘い匂いがする。俺は足首に包帯を巻いた。それから、病室で他人の幸せを願った。左手には愛と憎でできたカフェオレ。君に付き纏う虫を火に焼べて燃やした。ついでに、隣の芝生も燃やすべきだ。気が付けば、俺もひとの心を持った虫だった。俺は否応なく根暗で、底抜けさ、朗らかさ、豊かさ、そういうものが愈々似合わない顔の造形だ。他者を嫌悪してはいるが、翻って自分も好きになれたものじゃない。根っから産まれ持ったタチならば上手く付き合っていかねばならない。ただし、純血が泣き言を言うものじゃない。

 楽しいという感情は貴重なものだ。人生のコツは掴んだか?遊びなんぞ幾らでもある訳だし、遊んで辛いことは忘れればいい。ところで、誰と。俺と遊んでくれるひとはどっかに消えちまったが。俺は悪いことをしていない筈だが、友愛の関係が破綻したのは善とか悪とかでは何も測れないからだ。なぜなら善悪は数値ではない訳だし。測るなら分度器とメジャーだな。つまり、数字と工業製品によって替えの利く製品が客観性の代名詞となる時代である。そんな時代には犯行声明を出してやる。女に頼ることが善いか悪いかは分からないが、善悪のことを考えたくもない。俺にとって思考は邪魔な岩石だ。待ち焦がれても眠りがやってくる訳ではない。その癖眠りを恐れている。夜の帳に唆されてループに陥るのが恐いのだ。独りで眠れば恋人は言葉になる。恋をしなければいいだけなのだが。

 何の為に生きて死ぬ。何が楽しくてそれを問う。思惟の肴がそれだけなのは単に貧しい。幸福や愉悦や快楽を考えよう。それから素敵なデートコースを考えよう。一緒に居て楽しいひとと居て、人生を楽しむ方法を見つけよう。旨い肉を食べたり、スポーツをしたり、お笑いを見たり、ゲームをしたりして、俺は俺を許そうと努力している。許せる中での座興に勤しむのだ。全身を隈なく使う。身体を余すことなく使い切らないと不足感に苛まれる。Doの意味は、身体を使い切ることだから。肉体の包含する時間と空間を使い果たして、最後は消滅しなければならない。消滅、またそうやって死だ。気を抜けば、同じ場所に戻ってくるのが思考という不気味な奴さ。不気味な森の中で、時間と空間は同時に無限で同時に一瞬の恣意性の二重状態。つまり、それは無だ。それなら、重要なのは無よりもDo、行動することだ。言葉遊びに勤しんで、行動のできない俺を誤魔化している。エロスを、生の伎倆を最大化することが必要なのではないか?それが俺にとっての救いになるのではないか、と推し量る。予定調和を攪乱する。行動の為の行動を取る。クリエイションもデストラクションも別に変わらない。

 飲み込んだ言葉は石になって腹の底に溜まる。愈々死んでしまいそうな──何が辛いか、膨れ上がった風船のように心が持たないようである。人のものばかり欲しくなって、不在のひとばかり会いたくなって、無いもののことだけ延々考えて、目の前にある本当のものを見えなくなっている。結局それでは欲しいものが分からない。何か、本当には無いものが欲しいのだな。だとしても、まずは頭を撫でて欲しい。それか代わりに綺麗な黒髪を撫でさせて欲しい。原始的に言って物はまやかしなのである。霧のない世界は、肉体の交感。君と触れ合うこと。君に愛されていること。君を愛していること。君がまだ生きていること。治癒と解毒。恋の病の病気療養。月のように欠如した俺の心の形。心を抉ったのは隕石。誰かの口から出る言葉。

 頭の可笑しな人間同士が惹かれ合って性交をするならば真っ当な人間を巻き込むべきじゃない。特に犯罪者は己の罪を叫んで自害したらどうだ?──そうやって死の妄想ばかりして何になると言うのか?何にもならないな。人間の男の最終目標は女を犯すことだから、企みが成功するかどうかで善悪を判断したらどうだ?お前が美だの何だの語っても仕方ないだろう。俺がお前を善悪で判断する責務は弁証法的後退によって忘れ去る。アンチテーゼの為にはそうするしかない。人の形をした肉人形が吐く言葉は全部録音だ。人形には魂が入っていないのだから悩むのは止して壊すかどうか物質だけを問題にしよう。俗世に悩まされている内は、観念に耽ること、自然の閑雅、明るい生活、面白可笑しいことについて考えることがどうにもできなくなっている。果たして俺が望んだのはこんなリアリティーショーなのか?俺が大事に育んできた感性や詩性が不能になることは道義に背く。当然俺は貝殻に閉じ籠ることにした。

 忘却と思考停止の才能。イングソックの基本原理。帰るべき場所や頼るべき精神的支柱が俺にはない。都会に生まれ育った若者はそもそも故郷がどこにもないという感受性を備えている。理想など形のないものだから、俺は他人の精神を粉々に粉砕してから、肯定と支配により都合のいい従順な奴隷を作りたがっている。思考を声に出してみよう。声に出せば自分を呪う。声に出せば歴史になる。声に出せば行動が始まる。行動をすれば悩みは消える。純粋な行動は放たれた銃弾のように曲がることがない。もしも、迷いや苦しみがあるのなら行動原理を疑っている。行動を開始したのなら、行動原理は自我の外部存在である。精神は迷う為に在ることを止め、己の行動それ自体に隷従する。人間性とは必要な場合に必要な部分だけを曳き出すが、使い終わったら綺麗に元通り仕舞い込むものだ。人間性が機能であることを承知する。だが、何故俺は俺の人間性を否定したがるのか?それは俺が人間だからか?我が、思う限りに在るのならば、その存在を否定することは叶わない。蜘蛛の巣に絡まった羽虫は足掻くほど余計に身動きが取れなくなる。──そう言えば俺は虫だった。首を真綿で縛られるようなコギトの呪縛。筆を折った瞬間に思考が完了する。思索の底を探る他にやるべきことはないのか?

 想像力の問題。知識を利用するという時に、新たな発見を探る為にそれが使われるのならばいかに豊かであるか。発見の手法、及び観察の手法。物語知覚。それは第六感。テキストに拠るところでは耳か目の駄洒落、音であるか形象であるか。物語は語るという能動性の中にあって受動的なものではないように思われる。観察、そして妄想。見る、そして見ない。現実はたった一つの普遍的事実ではない。そもそも現実は存在していない。価値観を共有できなければ関係を継続するのも難儀だ。まずは思考を開く。割れた海のように。ロジックを放棄した先にある不可解なもの。それはただ一つ、不可解であるという所感を頼りに探索する迷宮。果たして出口はあるのか?しかし、迷宮を知覚可能な物語で絡め捕ってしまうことは避けなければならない。何故ならばこれは神話ではない。本質とはそれ自体であり、決して見つけ出すものではない。

 二百年後に残る会話をしよう。人生の意味は幸福を目指すことではあろうが、人によってはそんなことが、正当な理解が、正当さそのものが、何の意味も持たないように感じられる。人生は死化粧である。エロスとタナトスは一対のスピンとなって、生は死の為に、死は生の為に互いに互いを補完し合っている。始まり、という概念はここでは無意味である。何故若者が死への衝動を植え付けられ、懊悩しているのか。結局のところ、そこでは至極当然な何か、それも自然発生的な仕組みが働いているように思われる。それを思春期と呼んでもよいだろう。知恵の輪を知らないひともいるのだ。曲がりくねって嵌っただけの金属が知恵の名を冠するのも可笑しな話だ。何かものを知らないということでひとを馬鹿にせずにいようと、俺は心に決めている。色んなひとがいる。

 然して、夕焼けの刻むこの一回性の連続は、どうしようもなく氷が融けたような時間を演出する。少し優しくなれたのならば、少し大人になれたということではないか。奇跡的な出来事はこの世にはなく、毎度毎度、何らかの妥当な理由がある。きっとあの娘は気を遣ってくれたのだろう。それならば最初から遣っておけばいいとは思うものの、それでは氷が融けたような、或いは知恵の輪が解けたようなカタルシスはないのだろう。愛があっても曲がっているものだし、曲がった愛は中々愛には見えない。人と人との距離は難しい。真っ直ぐな言葉でものを言わなければ、真っ直ぐな思いまでは伝わらない。そうまでしても、言い条は誤解される。目の色と声色とで多くが伝わっていると思い込むけれども、そんなのは思い込みも甚だしい。人間に言わせれば、光と闇とは乖離している。紅茶を飲み干して、暗黒は斯く独り言ちた。