考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

切断主義者のディスクール

 これは両義的な言葉遣いの実演。語る舌は器用な舌捌きにして果物に刃を入れ、新鮮な断面を我らが眼前に献上する。切り出さなければ果物の内面性は空虚な暗黒──無味な事実である。切断によって産まれるものは美、そしてそれから続くものは腐敗。現代では腐敗を止める様々な創意工夫があれども、切断の手法によって意志の両義性は保つことが可能なのである。不在なる断面そのものの存在として言葉を編み出す手法を行使するならば、それは虚空に存在を産み出す神性と同じである。つまりそれは容易いことだ。実際必須なのはそれが可能であると信じる心臓の賭博──即ち反駁不可能な即死。「愛してる」と言葉にすることが、即ち愛していることを指す訳にはゆかず、衝動か、求愛か、値踏みか、虚言か。将又、台本か、調教か、遺言か──。言葉は言葉であり、言葉は言葉でない、とはつまり、それはそれだ、と。一回性の指示代名詞はコンテクストの限りコンテクストに格納され同一性を保護される。つまりそれが現象の実体であるのだ。対象を指差す空間の断裂、海を割る。時間であれ数学であれ、指された者が前へ出る。人波を起こし、時間ないし数学上に対立とT字路とを舗装する。空間の創造。暴力性とはクリエイティビティのことだ。

 真であるか偽であるか──と、用心深い者は問うだろう。真偽は甲乙と成り得るか、という問い。しかしそれは偽であり、乙ではない。偽を乙と規定するトートロジーに何ら論理的な妥当性がないのは当然である。それはそれであり、決してあれではない。このような事実に我々は絶望する必要があるか、と問う気弱な者があるかもしれない。希望も絶望も、それをそう望みたい者が勝手に望む人間の自由な営みではあるが、自由そのものの広大な黄金郷に必要性ないし何らかの曲者が闖入することは終ぞ有りはしなかった。第一、俺はイスラム教徒ではない。我々は絶望する必要がない。真偽には甲乙を付け難い、とはつまり、天使も悪魔も同質量の虚空である。それを指差した俺は、それに出会ったのだ。それを思うことで、お前はそれを知るのだ。メディウムは対象と対象とを、或いは対象と実存とを伝達する奇跡に他ならない。これを希望だと望みたいのならば、そうすれば良い。厭、俺もまたそれを望んでいる。法治国家に於いて、俺の信仰は俺の自由らしい。

 そして、この言葉は既に過去なのだ。切断された果物と、凶器となった刃物とは見つかったが、然し、切断そのものは見つかったか?果物の方も切られたことに気づいてはいやしない。我々にとっての世界象が些かチープであるからこそ、我々は切断によって果物に退隠する美味を礼賛する──然し、果物に退隠する果物そのものには関心など持たずに。それが愚かさなのかも知れないが、俺にとってすれば、切断そのものこそが美なのである。チープに世界を観察する人間にのみ切断は現前する。或いは当該の刃物を手に持った軍人又は狂人にしか、空想では全くない切断を知ることは出来ないのかも知れないが、とまれ気高くあることだ。単にそれが道具存在としての刃物である以上に、身体の延長であると心構える精神が、時間や空間や数学等のあらゆる狭間なき狭間に、切断面を見出すのだ。そして言葉の狭間なき狭間にも同様に操作を行う。そうすれば、世のあらゆるものを自由自在に一刀両断することができる。一と等質量の一対、科学的には一切等価な変化の末に、既に我々は新たなるものと出会っている。二つの断面、つまり対象の両義性と。

 無から有を産み出すことが不可能な訳は、無が存在しないからである。然しながら、四を五にすることはできる。皆様は既にお解りであろうが、両断するべく対象はもはや何だってよいのだ。果物であることと人間であることとの間に何ら差異は見出せない。あらゆるものを切断し、四を五に、五を六に、六を七に、錬金術によって世界を明るみに引き摺り出すこと、知的快楽と寿命とを等価交換することが一部我々の希望なのだ。我々はその人生を希望によってではなく、絶望によって選択することを課されている。例えば俺が何になれるのだ?人は可能な事よりも不可能な事が多い唯一の生き物だ。できるかできないかと問うてしまえば、一つ分の不能に自己を見出し、己の自尊心を摩耗する。不可能なことについて思い悩む余計な悪癖が、日々の幸福の何割かを食い荒らしている。何になりたいか?それは自分の人生の舵を握る権利を与えられた二世者の小火く痴言に過ぎない。

 人間は弱き生き物だからな、裸にひん剥かれたら一切の勇気を持てないのだ。何か、己を守ってくれる存在の確かさを心の底から求めている。高価な衣服、アクセサリー、靴、鞄、腕時計、ヘアスタイル、身に着けるもののすべて。勿論、恋人も知識も。ほんの少しだけ無神経な、なんてことのない一言が、深々と胸に突き刺さって、出血で頭が朦朧とする。馬鹿め。それなら端から心を閉ざしていればいい。レッテルさえ貼らずに、人型のオブジェを土台信用せず、馬鹿を馬鹿だと見なし、冷笑する。ひとはすぐに裏切るのだ。今は稀有な精神の治癒者であったとして、明日はどちらを向いて何を話しているか分かったものではない。生きている限り、誰にでも誰かを裏切る権利がある。それが恐ろしい。それがこの胸に突き刺さったような痛みの正体か。

 恐らく多くの愛を求めている──厭、多くと言うよりは単にそれらは一度知った常習性の安らぎ。ある場合では、安らぎは別の安らぎを掻き消すものだ──膝枕のように。俺は耳を塞いで、声を拒絶している。関係の起点を潰してしまえば、誰かを恐れる必要はないからだ。それでも過去はどこまでも纏わり付く。せめて思考の城に於いては、その安息を守られたいと願うものの、衛兵を雇う余裕もない。第一、過去を恨むと同時に過去を宝物箱に仕舞い込んでいるような甲斐性無しさ。

 人間は運悪く、忘却の能力を持たされずに生まれてきた。全く以って確率によるものなのか神の差し金なのか分かったものではないが、とにかく困り果てた。些細な事実だけを知らぬ間に消去されて、記憶を節約されている。神は何故人間に忘却の権利を与えなかったのか。何故生に苦しみを与えながらも、死に幸福を飾るのか。神は人間を愛さなかったのではないか。もし神などが居るのなら、てんで悪どい奴じゃないか。少なくとも、親の与える愛に似て不完全な愛だ。つまり完全な愛とは、求める者の中にしか存在しない。耳を塞いで独り言が支配する世界に閉じ籠る、それが生まれてこの方獲得した唯一の権利であって、引き摺り出そうとする奴が犯罪者なのだ。独り言がお似合いな陰気な人間だからな、俺を愛さない人間は何も言うべきじゃない。「ご機嫌よう」の一言さえ。