考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

黄色い日記

「俺はこう見えても日記をつけているんだ。もう5年。6年。いや8年か。」
「へえ、日記を。お前がね。」
「8年前というと、書き始めは思春期だから。てぇことは6年前か。まあいいや。とにかくその頃はなんとも瑞々しいというか、気色が悪いというか、正直に言えばいっそ燃やそうか悩んでいるくらいなんだが。いやまあ恥ずかしくてね。とてもじゃないが人には見せられないな。」
「へえ。そんなもんか。」
「思春期の男てのは上に振れても下に振れても最悪だからな。どう転んでも気色悪いのは避けようがない。転んだ時点で男坂を転がり落ちる。思春期というのは切ないね。」
「別に、お前が気色悪いのは今も昔も変わらないよ。」
「は。で、案外ああいうのってのは、読み直すのが一番楽しいんだな。日記の醍醐味ってのはそこにあるな。しかし、まあお聞きなさい。俺はね、とんでもないことに気がついちまったんだな。もうびっくり仰天。膝からキノコが生えるくらいにはね。」
「ああ、膝からね。」
「もう6年も日記を書いてるからな。世の中広しはといえ、これは俺しか気づいていないかもしれないんだがね……」 


 彼は生来の秘密主義者であったため、気心の知れた友とそういった話題になっても、郵便局の角で別れたあとも、夕暮れの畦道で物思いにふけっても、特に打ち明けたいとさえ思わなかったが、彼も10年前から日記をつけるのが習慣であった。
 彼の住んでいる町は地平線の向こうに山が聳え、見渡すほどの田園風景が広がり、彼は環境がひとの精神を作ると信じていた。日々同じようで少しずつ違う自然の表情と、それを鋭敏に感じ取れる自分の五感とが感応しあっていることを彼は知っていたが、その美しい風景のことを彼は好んではいなかった。美しいものを好きになれないへそ曲がりな気性だからこそ日記を書いてしまうのだと彼は思っていた。だが、内心では間抜けと見下していた友が日記をつけていることを知って、幻滅のような薄暗い感情を抱いた。
 彼はつとめて家族と顔を合わせないように素早く靴紐を解き自室に滑り込む。不仲という訳ではなかったが、何気ないあいさつが内気な彼にとっては苦痛であった。まだすっかり日が暮れていない時は窓を開けて外を眺め、一刻一刻と空気が翳っていくのを眺めた。その日は既に夜であった。
 彼は押し入れの底から手垢の滲んだ十数冊のノートを引っ張り出した。それら数年分の日記はどれも同じ大きさの黄色いノートで、表紙には年月日が記されている。橙色のか細い電灯の灯りに照らしてページをめくる。彼は10年も日記を続けていたが、過去の日記を読み返すということは好まなかった。思うままに言葉を吐き出すということにだけ欲求があって、彼の友が言うような読み直す醍醐味ということには関心を持たなかった。だから、確かに彼の友が言うような「気付き」には少しも気付くことはなかったし、そのことが彼をより深く幻滅させることになった。それでも、それから数か月は日記を書き続けたが、次第に筆が乗らない日が増えて、いつしか辞めてしまった。


「すまないけどね、そこにある黄色いノートを取ってくれんかね。」
 ベッドに横になった老人は、向かい側の背の低い本棚を指差した。恐らくまだ十にもならない背丈の少年は、老人の指差す本棚を物色して、やがて日に焼けた黄色いノートを見つけ出した。少年はベッドで横になったままの老人の枯れ木のような指の間にそのノートを柔らかく挟み込んだ。
「これのこと?」
「ああ、そうそう。ありがとう。」
「汚いノートだね。」
「ずっと昔のだからねえ。」
 老人は肩から下げた老眼鏡を耳に掛ける。乾ききった親指を舌で舐め、ページをめくる。何かを探す風に、一ページずつ。そして、あるページを開いたところでめくるのをやめ、今度は逆向きに二、三ページ行ったり来たりをするが、次第にそれもやめる。
「あっくんや。」
「なぁに。」
「なんでもいいんだけどね。日記や絵日記なんかを書いたりしているかい。」
「うん。夏休みの宿題で書いたよ。」
「そうかい。あっくんはえらいねえ。ちょっとね、じいちゃんに見せてくれるかい。」
「いいよー。」
 少年は生返事をしながらゲーム機を折り畳み、猫のように椅子から飛び起きる。絨毯の上に無造作にひっくり返った紺のランドセルの口を開け、表紙に花の写真がプリントされた学習帳を勢いよく引っこ抜いた。その拍子にランドセルの中から筆箱が飛び出て鉛筆が散乱するが、少年は大雑把にそれらを鞄の底に詰め込む。
「えっとー、うーん、えっとね。読んであげるね。えー、7月22日。今日はおひるにそうめんを食べて、友達と公園で木に登って遊びました。公園っていうのはみつまた公園のほうね。あと、テレビでおもしろいお笑い芸人が出ていました。名前は忘れました。えー、7月23日。今日はみんなで車で川に行きました。魚をとって、焼きました。あと、サービスエリアのところでチョコとバニラが半分半分のアイスクリームを食べました。おいしかったです。7月24日。今日は友達と公園でカナヘビを捕まえました。そこで他のクラスのひとたちがサッカーをしていて仲間にいれてもらいました。サッカーボールが欲しいってお母さんに言ったら誕生日に買ってくれると言っていました。7月25日、今日は……」


 老人は少年の読み上げる日記を黙って聞いていた。少年は最後まで読んでしまうと一仕事終えたかのように一息ついた。
「お終いかい。」
「うん。あ、先生の赤ペンがあるよ。楽しそうな夏休みでしたね。ところでアサガオは元気かな?だって。意味わからーん。」
 少年は澄ました顔で学習帳をまた紺のランドセルにしまうと、金具を締めて、そのまま両肩に背負う。老人の枕元に近付くと、両の手のひらを差し出す。
「読んであげたからお小遣いちょうだい。」
「あいあい。ちょっと待ってな。」
 老人は枕元の薬箱から小銭入れを取り出し、少年に少しばかりの駄賃を与えると、少年はそれをズボンのポケットにねじ込み、ずれたリズムのスキップで玄関まで行く。不器用に靴を履く後ろから老人が声を掛ける。
「また、じーちゃんに日記を聞かせてくれたら嬉しいなあ。」
「うーん、気分次第かな。バイバーイ。」


 やがて一人になった老人は枯れ木のような指で薄汚れた黄色いノートを開き、掠れて消えそうな文字を指で追う。そしてまた、あるページを開いたところでめくるのをやめ、今度は逆向きに二、三ページ行ったり来たりをするが、それもやめる。
「膝からキノコが生えて、それから……どうしたか。あの男が大したことないようなことを言ったために……この、あの男というのは一体誰かねえ。ここはもう仕事の愚痴ばかりかね。なんだったか、膝からキノコが生えて、それから……」
 老人の手元の見開きページは左中段の辺りで書き込みが途絶えていて、右から残りはすべて空白であった。老人は親指を舐めて何枚もページをめくるが、もはやどのページも空白であった。それでも執念のような面持ちで親指を舐め、貯金の札束を数えるかのように念入りにページをめくるが、やはりすべて空白であった。老人の表情は疑念とも悔恨ともつかぬ風であったが、それは彼の顔に刻まれた皺の造形が意味深長さを演出しているだけのようにも見える。
 やがて短い溜め息とともにノートを閉じると、老人は枕元の紐を手繰ってテレビのリモコンを引き寄せ、スイッチを入れた。名前の知らない芸人が大声で何かを言って客席の笑いを取るのを見たり、世間を騒がせている事件に神妙な顔でコメントをする、名前の知らない学者崩れの議論を見たりした。常のごとく、番組に飽きるとチャンネルを順繰りに回した。 
「なんだったかなあ。日記をやめちゃった訳くらいは日記に書いとかないといかんなあ。きっとしょうむない、つまらん訳だった気がするんだがなあ。今となっちゃあねえ。人生がどんなだったかも思い出せやしない。確か、膝からキノコが生えて、それから……」
 老人はぶつくさと独り言を言い、チャンネルを順繰りに回す内に、やがて日が暮れた。窓の裏には新築のマンションが建っており、壁以外には何も見えなかった。壁以外の何かを見ようとすることもなかった。