考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

拝啓犬様

犬様

拝啓

 寒さもひとしお身にしみる頃となりましたが、犬様におかれましてはご活躍のこととお喜び申し上げます。犬様のお陰様で、私もささやかながら幸せな日々を暮らしています。

 人の世は相変わらず騒がしいものです。私は美しい人と美しくない人を勝手にラベル付けして、前者を勝手に愛して、後者を勝手に軽蔑していますが、生まれ変わったら犬様のような屈託のない犬になりたいと思っています。そうしたら勿論ピッツァも食べたいです。犬はピッツァを好きなだけ食べれるのだから羨ましく思います。それから、不在の第三者を性的に消費する発言をしてしまう人も頗る気持ちの悪いものです。殿方はみな不潔な心しか持っていないとお母さまは常々仰いますが、本当にその通りだと思います。

 しかしながら、不文律は規律ではありませんので宣言していない人が悪いのだそうです。(これはお父さまの受け売りです。ここだけの話、お父様っていつもちんぷんかんぷんなことを仰います)人の世って摩訶不思議アドベンチャーだと思いませんか? これもいい機会ですから、気持ちの悪い人たちも生まれ変わって犬様のように素敵な犬になればいいのにと思います。犬は生まれ変わっても何かになれませんので、それも丁度いいと思います。

 かれこれ、芸術という言葉をもう殆ど使わないようになりました。代わりにそれらを現実と呼んでいます。私にとっては切実な響きです。通常、人を人たらしめるものは挨拶と時計ではありますが、実はそれらは努力なのです。努力を忘れると容易に人は人でなくなってしまいます。それ以外の道筋でも、人間性を喪失する目に見えない抜け穴が幾つもあって、芸術はその内の一つだと私は考えています。これって悪い意味で言っていますのよ。犬様はご存知でしょうか? 芸術というのは、実は名古屋なのです。そして名古屋の先には新大阪があるのです。新大阪は現実だと私は思います。でもそれはマヤカシです。本当は現実を作らなければなりません。新大阪もいずれは名古屋になるからです。(私の言いたいこと、犬様なら分かりますよね)

 もう年の瀬ですからこの際色々と白状致します。乙女の懺悔ですから、どうか聞いてやってください。私のような嫉妬深い徒人は、簡単な方法で人生を手に入れることが許せないのです。人は易きに流れますが、大事なことは美を船に乗せて漕ぐことです。漕いでいる限りは人もまた美の一部なのです。船を捨てるような、人のお金で豪華客船に乗るような簡単な方法で人生を手にするような軟弱者にはならないで欲しいのです。その意味では、私って凄く嫉妬深い人間です。辛い現実に立ち向かって欲しい、孤軍奮闘して欲しい、と美しい人々により一層美しくなあれと日々おまじないを掛けています。そういう人だけが持つ美しさを見るのがとっても好きだからです。お化粧の上手な女の子よりもずっと素敵だと私は思います。私は美を人に押し付けてしまいますが、犬様にもそういった押し付けがましさってあるでしょうか?

 これは私の信念のようなものなのですが、愛した人は臓器になると思っています。臓器といっても内蔵ではなくて、体の外にある臓器のことです。胃や心臓や肺や性器は、それらのことを考えるだけで、そこに確かに感じることを嬉しく思います。でも時々怖いなとも思います。朝目が覚めた時に、お布団でぬくぬくしながら自分の心臓の音を聞いていると、何だかいつ止まってもおかしくないと考え始めてしまって、それが怖くて飛び起きるのです。内蔵は考えるだけでいつでもそこに在ります。それに対して外臓はどうでしょう(外臓というのは臓器になった愛した人のことです)、考えるだけでそこに在るんでしょうか? でも、それらは考えるだけでそこには在りません。言葉の区切りは存在の区切りですから、内臓とは存在の異なるそれらは考えるだけでそこには居てくれないのです。どうしても寂しくて一緒にいてくれることを望むのなら、存在の仕方を変えてあげないといけません。要するに殺してあげないといけません。死んだ人はいつも背中と瞼の裏に居てくれます。考えるだけでそこにいてくれます。こんな時、犬様もお側にいてくれればいいのにと思います。こんな事を言っても仕様がありませんよね。幽霊になれるのは人だけです。

 先日、お母さまと銀座でお買い物をして、それから中央通りのフルーツパーラーへ行きました。苺のたくさん乗ったパフェを食べて、とても美味しかったのですが、そこで永遠に八分ずれる時計のお話をしました。お母さまのお家の時計の歯車がどうもずれているようなのです。私が行って中を弄れば直すこともできるでしょう。(私って実はそういうことにも詳しいんです)でも、八分ずれた時計は一分ずれた時計より面白いのでそのままにしておきましょうということでそのお話は落ちがつきました。お母さまは賢い人ですが、チャーミングなところがあります。基本的に、お母さまとはお花と紅茶のお話しかしません。考えてみると、どちらも植物の話です。人が植物を育てるのは、何かを愛するためのトレーニングなのだと私は思います。子供を育てるということは並々ならぬ活力の要ることです。殿方には真似できないことだと私は思います。母という生き物は、その並々ならぬ愛を数十年にも渡って持ち続けるのですから、子が巣立って行っても、何かを育てるのをやめられないのだと私は思います。それは挨拶や時計と同じように、努力しなければ喪ってしまう幾つもの人間性の欠片の一つなのです。

 人は自分自身の体を細かく欠片で分類して、そこに名前をつけました。これは犬はやらないことですよね。それに加えて、医療や化学の盛んな研究によって、人は自分自身の欠片を組み替えることを可能にしました。これは名前をつけたからできることです。内蔵も、血液も、顔も、遺伝子も、組み替えることができるようになりました。これも、犬はやらないことですよね。偉大な科学者のように、社会をより良くしようと思うことは、やはり美の船を漕ぐことなのだと思います。そうでなければ、まだ名前のない子供たちのために努力することは難しいからです。名前や姿のないものを慈しむというのは難しいことです。例え傍らに、ひょっとするとこの世に居なくても、名前を呼べばそこに居てくれるような気がします。だから名前ってとても大事なんです。ねえ、犬様?

 そう、名前と言えばなのですが、幼い私はお父さまに「お名前はなぜ必要なの」と尋ねたことがあります。子供って時々難しいことを聞くものですよね。そうしたら、お父さまったら七歳の私に「墓標に刻むためにつけるのだ」と仰いました。その時のお父さまの表情さえも鮮明に覚えていますから、決して夢ではありません。希望のないことを子供に教える甲斐性なしなところが、きっとお母さまに愛想を尽かされた理由なのだと思います。でも、その日の私は犬様にもお名前があればよかったのに、と思いました。もしかすると、お父さまも同じことを思ったからそんなことを仰ったのかもしれませんね。歳を取ってから悔やんでも過去は変えられないものです。

 このお手紙が届く頃にはもうクリスマスですね。私は毎年のことながらお母様とささやかなクリスマスパーティーを計画しています。犬様は特別な日を誰とお過ごしになるんでしょうか? 差し支えなければ私にだけ内緒でお知らせくださいね。年内のお手紙はこれが最後になることと思いますが、そちらでもお元気にお過ごしください。

             かしこ

十二月二〇日

            〇×院△子

犬様