考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

紫陽花が青い理由

 不寛容な雨が缶酎ハイを限りなく薄めて行く。精神的潔癖、精神以外が潔癖であるということなどないだろう、と思う。いずれにしても肉体は穢れているし、肉体は救えない。我々の肉体に清潔などあり得ない。精神だけが存在している限り、肉体的闘争も政治的闘争も無為である。美しさだけが我々の為に闘争している。暴力的に接近し、暴力的に傷付け、暴力的に高望みをし、暴力的に侵食するのが、人間である。人は何故醜くなれるか、生まれつき醜いからである。

 人も犬も優しくない。敵意は吠えるからだ。猫は優しい。無関心は優しさだからだ。猫でないならば、自滅的な迄の優しさだけが唯一信じられるものであるが、しかし、勿論、必然的に彼らは自滅する。波音を立てぬ白鳥のように、腐敗した資本主義から脱出する夢を見る。優しさだけで関係づけられる世界──どう足掻いても退廃的な──へと逃亡したいのだ。不寛容とは言い換えれば鈍感のことである。鈍感は時に人を殺す。死に値する罪である。

 私は魂の存在を信じている。魂というのは信じるか信じないかというだけの観念であり、それ以上も以下もない。その信仰故に、例えあなたが死ぬとしても、その魂が少しでも浄化されて欲しいと願ってしまうのだ。死がどうしようもないことは理解しているが、魂は救われて欲しいのだ。願うだけでは意味はなく、行動しなければならないが、しかしながら、何をすれば良いかも分からず──否、結局は覚悟がないのだ。言葉で戯れているだけの私は、恥知らずでありたいと願うだけのどうしようもない碌で無しだ。

 不寛容な雨が棄てられた空き缶を満たして行く。畑を泥に変えて行く。人も泥に変えて行く。空と雨と泥の国。私達は泥なのだから、何も考えてなくて良いのだ。目を閉じて、耳を塞いで、雨が過ぎ去るのをじっと待てば良い。紫陽花が青いのは、その潔癖を穢すどんな手段もないからだ。