考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

福呪草

 一人でも多くの人間に幸せになって欲しいと心の底から思う。勿論幸せな人間を見れば祝福の感情が湧き上がる。綺麗事、というよりは狂気染みた博愛主義のようなもので、私の存在に関わらず既に幸せな人間に対しては私は何も寄与する必要がないのだという安堵感から来るものである。それがどこからやってきた狂気なのか、私にはその源流が明確に分かっている。諦めと、僅かながらの恨み。道義的な教えであろうとも、幼な子に思想を植え付けることが孕む危険を理解しなかった点に於いて、我が母は愚物であった。私が自分の名前を嫌いになったのは、他者の為であれという名付けの呪いの為であり、宗教への拒絶と時を同じくする。音が先で字は後から決めたと聞いたが、よく考えれば母が宗教に染まり出した時期の方が幾らか早い。他者を救わなければという強迫観念。それはそのまま他者への恐怖と嫌悪に変わった。何故己の不幸を顧みず他者の幸福の為に行動しなければならないのか。私の幸福の為に行動する人間などいないのに。子供に我が儘を禁ずれば先か後か必ず歪みとなって現れる。現れた歪みが必ず私を苦しませる。だから貴方達は皆幸せにならなければならない。そして私もまた幸せにならなければならない。