考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

交換可能な生活

 現代日本人は日本人の思想的ネオテニーであって、日本人とは殆ど別種です。狼が犬化したように、家畜化され牙を削がれ調教された日本人の情け無い様に落胆するのは哀しみゆえ。地を這う蟻が鳥のようには空間を認識できないように、ひとの頭の悪さについては認識できるが頭の良さについては認識できない。要するに誰しも自分の頭のデキはまだマシの方だと思うものです。自動販売機で売られる自称”おいしい水”が何故己を”おいしい”と自称するかを顧みれば事態は明瞭です。詰まる話、私は馬鹿だということです。個性は活用できなければ無意味ですが、何事も活用には努力が必要ですから、怠惰という個性には努力が結びつかず活用もされず意味がないということになります。それどころか無意味なものは存在が認められませんので、怠惰という個性は存在しないことになります。そうであれば性質ではなく現象、行き着く先は科学か哲学ですが、怠惰な私にはそれを解き明かす能力はありませんので、怠惰を神秘的なものとして崇める他ありません。神秘的なのですから、神秘と同一化しようと試みるのも仕方のないことであり、私は怠惰である私を肯定するのです。

 お道化振っていてこんなに哀しいことがあるでしょうか。とにかく世の中の全てが哀しくて哀しくて仕方がない。きっと薬物投与で治ってしまうような哀しさなのですが、そうなると恋は薬です。恋は幻である限りは薬でも恋の実体は肉を通して以外には相容れぬ他者ですし、そうして己が肉である事に気付かされ、より一層深い哀しみに突き落とされてしまうのです。しかしながら地の底で生きるのも構わないと思ってしまいます。失えるものを持つことこそ恐ろしさの根源ですから、あらゆるパーツが替えの効く生活は悲劇も喜劇も生まないので平和主義者には御誂え向きでしょう。

 不足のない生活を送っている筈なのですが、どうにも満たされぬ人生を送っています。思い出が人を傷つけることもあるのです。ドーナツの穴を見るのと同じように、手に入れたものを失うことによって初めて虚無とは知覚されるものです。それゆえ一時的な快楽を手に入れるほど人生は哀しくなるのです。ゾンビとキスするが如き愚行、それもまた愛の為せる業でしょうか。死すらも美しければ肯定するしかありません。老いの哀しさとは堆積した時間の重みなのです。時間とは正しくは空費するべきものなのです。しかし正しさに意味はないでしょう。だからこそ、置かれた場所を破壊しなさい。テロルこそ救世です。