考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

泥の羊水

 臍の緒が切れると、人間はマザーコンプレックスを発症する。恋とは、ただ繋がっているという安心感を求める感情だ。裏切りを恐れ、人間を恐れ、それでも誰かを信じてみる。常に片手落ちの信頼だ。中華料理店の店員に向ける程度の信頼。俺は核兵器が好きだ。人間も動物も残らず死ぬべきだから。すべての暴力を飲み込む暴力で、地上を枯れた荒れ地に変えてしまえるボタンが好きだ。胸の内は窓越しの遠雷のように騒めいている。電線の繋がる先、南の彼方に目を遣る。距離感を失ってしまう気味の悪い白い空が延々と続いている。じめじめした夏は嫌いだ。短くて過ぎ去る秋が好きだ。愛やら嘘やらとは無縁な、ぽつんとした幽寂。ビートルズは秋の音楽だと思うから、好きだ。

 氷が融ける時のような柔らかさ、角の取れた暖かな氷。ぬるくなった水のようでもなく皮膚の焼ける氷のようでもない時間。気持ちのいい爽やかな湿度。氷のような愛情と、製氷機のような青春。音楽は染み渡り、アルコールは頬を溶かす。目を閉じれば身体中が溶かされている、フワフワな呼吸。火照った舌を冷やす為に氷を作る、そういう役目の機械。思ったことを言葉にする。そうしなければ忘れてしまう何か。掛け替えがない癖にすぐに行方を晦ます感情……。日差しの白む秋の廊下にだけある孤独のような感傷。エッセイは捕まえた残像を書き残している夢日記のような性質のものだ。時間に奪われる感傷を取り戻すためにのみ記録はなされる。

 嘘にはコウノトリのような吐くべき嘘と、暴力家の吐く利己的な嘘とある。冷蔵庫のプリンを食べていないと言い張る子供のような可愛げのある嘘なら、嘘だって顔に書いてあるから別に構いやしないさ。片一方で、吐きたくて吐くような嘘を垂れ流す、裏表のある人間の歪さへ遠くから想いを馳せてみる。歪さを嫌悪していることには変わりはないが、離れた心が近づくことはもうないのだから。薄まった毒ならば珍味として扱ったっていい。悪人に共感する自傷的療法への妄執に、俺は囚われている。

 昨日の晩に練った邪気も、蒸し暑い南風に吹かれて流された。埃を被った置き物を捨てることで新しい物を置くスペースができる。空間ができると爽やかな風が吹いてくる。隙間風だ。視界が開いて、空が青かったことを思い出す。そんな大事なことを忘れていたことにさえ愕然とする。本当に大事な物は捨てることで消えたりはしない。物がそれほどの重要性を持っていることが、まずあり得ない話だ。開けた青空は、俺が物に呪われていることを教えてくれる。物の怨念に日々の活力を吸い取られていたのだ。寝ることしかできない部屋というのは、実際よりも狭く感じられる。さしづめ家に帰れないで、癒しを求めて歓楽街をほっつき歩く羽目になる。帰る家に空き地を作らなければ窮屈な日々を過ごさなければならないのだ。習慣的な掃除。梅雨にのしかかる湿気を吹き飛ばさないと体の内側から黴てきてしまう。

 気分屋の空気。耐え難い暑さから逃れるべく、自転車に乗って風になる。駅前の空き地には一体どんな建物が建つのかと思っていたら、新たに墓標のような高層マンションができていた。俺の住む街は、一層面白みのない街になっていたようだ。昔は巨大な娯楽施設があった土地であったが、覚えているのはそれなりの古参者だけだ。移り住んでくる若年夫婦にとっては埋立地と代わり映えのない街だ。都心部に無数にあるオフィスの複製と行き帰りするだけの空っぽの宿であったとしても、生まれてくる赤子にとっては忘れがたき原風景になる。そのことが、何故だか悲しく思えた。

 

 

 射影。枯れたイチョウの木の下の白い残像へ眠る旭日。射影。巨大な蒸気の音に彼ら同士では無関心な群像劇。射影。取り戻しようのない一瞬の世界の傾き。次の一瞬では世界は完全に失われている。衝突し続ける未来から失われた世界を、新しい世界で俺はただ愛している。その愛も、思いつく限りの手を施したところで見る影もなく蒸発してしまう。溶ける前の氷菓の写真を撮ることでしか形を世界に繋ぎ止めておくことはできない。蒸れっぽい一陣の熱風に、飾りの付いた夏のキッチンカーが白飛びする。アイスクリームの売っている夢のような緑の車……。先だって重い瞼を開くことだ。何のことはないさ。世界は最初から開かれている。俺にそれを見つめる気力が残っているかどうかだけが、個人的な問題だ。気力を起せ、相変わらず弱気なやつ。

 爽やかな遊び。刈り揃えられた芝生を踏む音が響く閑居。芝生を踏み鳴らして柔らかいボールをやり取りする遊び。光の柔らかさに包まれるだけの快楽──否、そんな情景は忌まわしき惰性だ。俺の求めるのは血が沸騰するかどうかだけだろう。俺の事は誰よりも俺自身が一番理解している。人間の底に溜まった泥濘にのみ関心を持つ、俺。乱雑に掬おうとすると上澄みと混じって泥水に消える川底の堆積。人間というのは通常生活している限りでは濁った泥水の状態なのだ。人間の底を見るには慎重に近付いて信頼を得、咽喉から手を入れて心臓を掴まなくてはならない。愈愈心臓を掴んだところで裏切りを悟った間抜けな魚顔を観察するのだ。俺の心臓も魚のぬたうちと同期し高鳴って、漸く生きていることを感じられる。或いは、そんなやり方でしかもう人間を愛せないのかも知れない。魚と思うことでしか……。人間に本質なんてものがあるとするのならそれは暴力だ。特に、自分を善良な人間と思い込んでいる人間ほど禍々しい暴力を撒き散らしている。当然、俺もしがない暴力家なのだ。

 この胸に痼るものは決着をつけるべき後ろめたさだ。俺が俺を解放する、その為の懺悔だ。だが、結局それが何を結末するか俺自身想像の外にある。高まるこの鼓動が何なのか、性への衝動ではないらしいことを俺はどこか残念がっている。俺は俺を開示する。母親に慰められる子供のような抱擁。マザーコンプレックスの変異だ。人の体は最初から抱きしめ合う為の形をしている。だから、安心する。人間は単純だ。俺はただ、その単純過ぎる衝動に論理を結びつけてやらなければ得体の知れないものを信用できない臆病さを足蹴にできないでいる。

 罪作りと贖罪が全く等価だと、一体誰が想像し得ただろうか。現象とは西瓜を二等分にするのと全く同じ仕組みである。光が当たることと影を作ることが合わせ鏡なのと同じことである。そうなれば行動と信念、善と悪、本能と理性のような対立は、闇雲に対立しているだけの「捻れた童話」であるように考えられる。けれども、思考と快楽もまた自分語り的な童話に成り果てることは当然の帰結だ。人間への不快感を持ちながら、人間像への憧れを失わずにいる俺の理性もまた、因果に分解される以前の起こるべく事象の領域に刻印されていると俺は信じている。個々の信仰は自由だからだ。そうでなければこの文字列は現実に刻まれ得ないだろうさ。

 当然認められるべき自然的な部分。これを一つの定理として定め、思索を始めよう。インテリの言う「構築」や「脱構築」とは結局のところ、一つの信念に基づいた信仰心の顕現だ。俺は当然人間であり、動物であり、数十瓩のタンパク質であり、歩く道や躓くべき小石を予期する知性であり、知性を否定する愚かな矛盾でもある。これらの列挙だって当然認められるべき自然的な部分だ。認めるという手続きが人間的過ぎるが、人間の思考を通してしか人間は思考できないという自然的事実によって無効化できるネガティブだろう。俺は俺の思うままに思考し、行動することを与えられている。それであれば、罪悪感に何の意味があるのか。論理で捕らえることは困難な複合物だ。論理の眼鏡を通せば単純にダブルスタンダードであるという事実が見えるだけだが、それでは一面的だ。サイコロでさえ六面あるのだから、現実が一面であるというのは到底考えられない。暫定的な解として、世界は矛盾している。そうでなければ胸が痛むようなこともないのだから。