考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

左利きテセウスの餡パン男

 天井には幽霊が住んでいる。だから目を開けるのが恐ろしい。暗闇が好きだ。光がなければ何も見なくていいし、何も見なければ何もしなくていい筈だから。答えの無い考え事をしながら、毎回遅刻してやって来る睡魔を待つだけでいい。例えば──俺は君が好きだけれど、暗渠暮らしの浮浪者には眩し過ぎる、光──のような苦言に留まらず、瞼の裏には幾つもの虫ピンが突き刺さるような光に惑わされて、俺は脳波の波間にぷかぷか漂っている。どうやらカーテンの裾合いが僅かに開いている。手を伸ばして閉じた。"手を伸ばした?"俺は果たして夢の中か、目醒めているのか、頭は未だ正常に機能しているか、観測者の眼を逃れた暗闇に於いては、後から言い繕う為の縫い残しがお作法だ。俺はいつだって優柔不断だった。加えて方向音痴だった。だからいつも選択を間違える。人生に出遅れる。冬は嫌いなのだ。外套がなきゃ何処へも行けない。好きと可愛いとセックスをしたいって同じなのか。多分違うな。俺の見たところでは、好きと好きになって欲しいがペアになって、可愛いとキスをしたいがペアで──違う、可愛いと可哀想がペアで、セックスをしたいと一人旅をしたいがペアだ。同じ排水溝からわらわら湧き出て来る。蝿のように。

 ともかく、そんなことで理解した風を気取るなよ。碌な面倒を見ずに手のひら返して消費する権利があると思うのか。天秤は釣り合ってないと駄目なんだ。俺のような人間は生まれ育った環境に不平を言えず、自分が悪い、意志が弱いと自分を責め続けて生きている。それもお作法。そうなのか?そうだとしたら人生は悲しい。──いや、弱音も何も吐く権利はお前にはまるで無い。せめてもの自己防衛、その為だけに画策している。頭の餡パンを略奪され続けて自己同一性を保てなくなったテセウスの餡パン男にしたって──暴力を笑うな、気持ちの悪い笑い声でひとを笑うな。──にしたって、自己犠牲は無為、世の中は全員敵、当然。地獄と同じ構造の欠陥住宅を建てやがった、あいつ。一日も早くこの監獄を脱獄しよう。湿気で魂が腐敗する前に。清潔でしなやかな魂だけがお前の取り柄だろう。

 休息は罪?病気になるのは罪?自分の価値を下げるのは罪?辞書と云う奴はいつも曖昧に嘯いているな。法の定めるところでは罪ではないと云う注意書きはエスプリ、身内ネタ、飽き飽きしている。まるで署名と捺印によって土台不利な契約を交わされた公共放送の視聴者の如くお前は罰せられ、誹りを受ける。お前を突き落とすのは多種多様な紙束を握り締めた人間だ。罰があると云う事は翻って罪?──それで愚者の誕生。無神論者のお前には是とも非とも明晰を欠くことだ。以上のようなルーティーンに従って次々と罪が量産される。有り難い大量生産の時代だ。けれど俺は今更欲しいものがない。カタログには幻想が必要だった。街の喧騒を固形調味料に凝縮した際の音が、消魂しいお前たちの言葉の全てが、排気ダクトに粘着する変色した油のような呪詛に聞こえる。美を知ったような知性もなくリズムもなく、生きて死ぬまで穢らわしさだけ一貫している。俺が嫌いな君の気持ちも今は理解できる。だけれど俺は君のことが嫌い。蜘蛛の巣に火を付けて、滑り台に火を付けて、とうとう俺は異常者に憧れているだけの哀れな人間だということに気付いた。今日も鏡に向かって笑顔の練習をする。人間に成りたての宇宙人のように。それではまた。