考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

一本差しの花束と世界を溶かす爆弾

 死に似た緩やかな穴に断ち切りの髪の毛が滑り込む午下りのように、劣等感と後悔と劣等感と──が、無限の縞模様を予期させる渦を描き、自然の摂理によって穿たれた得体の知れない黒い穴に飲み込まれてゆく。それは、永久の夜更け。

 未だ推敲の続く物語が出し抜けに君を好きだと言った。触れた感触のないページがひとりでに綴糸を擦り抜けたはいいものの、考えなしに所在がなく、奇数と偶数の間を揺蕩っている。後先を考えずに生きるのは人間の性だろう。取り敢えず、と用意された台詞は嘘でもなく、ましてや真実でもなく、恋慕の本質を構成する必然的な情熱、別の様態を取れば絶対的な判断基準が欠損している。そうだとしても、俺にとって欠損とは寧ろ好ましいものである。欠損者の持つ美は永久に辿り着けない蒼穹の神殿に座しており、中庸と正常に捕まった酷く眼の良い罪人は天を見上げて、だらしなく顎が開いていた。

 俺とよく似た、美に取り憑かれた人間だけを友人と認めることができた。俺とは終に交わらない、美そのものである女だけを愛することができた。醜い家鴨は文化的な好青年が好きだったから、結局白鳥に成ることはなかった。ベッドの隣で夢を見る人間は誰が見ても幸せそうに眠っていた。だから、俺がその姿を見守る必要はなかった。俺でなくとも誰でもよいのだ。

 矢継ぎ早に十二個の夢をファストに見るのなら、例えばロックスターになる、のような単純な番組が都合よく、名前を持たない深淵の実在を確かめる為に電波の波を手探りでザッピングし続けることに何か有意な目的がある訳はなかった。それでも意味のないことを続ける俺は特別な人間なのではなく、却って平凡な人間だった。俺は未だ何者でもなかった。肩書きは一つもなく、一つとして何かを作った事もなく、拾い上げた耀く石々は遠い誰かが太った指を鳴らすだけで忽ち粉塵と化して、その潤いさえもない掌から失われていく。全く以て無様だ。と、お前は思えばいい。それはつまりこういう話だ。一歩歩いたら二日寝込んでしまう怠惰な二十日鼠は寝ている最中に死んでしまって、即座に葬式は執り行われた。そして滑稽な式場では客席には冷笑さえない。そうか、とうに皆帰ったのか。

 

「そうだ。人を殺そう」

 

 俺は全く以て平凡な人間だった。俺の内には一つとして明々と輝くものがなく、必要なのはただ一つ、犯罪であった。俺のような人間にとって処刑台とは、黒豹と同等に艶やかに炫る背徳なのである。肉の内側から止め処なく溢れるものの正体は、人の力では廃棄不可能な憧憬である。何かに秀でると云うことは代わりの何かを失うと云うことであり、一方の俺は失う能力を欠如していた。怒りを表現として昇華する術を持たなければ俺は人を殺していただろう。人の道を踏み外さない結末を迎えるとしても、愛する人間の幸せを想う為には、共にならないことを願わなければならない。お前によって思想された世界では俺は最期まで独身者だ。それを言葉にするということはその言葉が胸の内の心木を脱漏している、という後ろめたさを暗示する。虚に飾り、一意に断定する言葉遣いが、寧ろ揺らいだ懐の輪郭を射影するものである。差したるは日本刀か花束か。何れも愛に殉ずる。お望みだろう。されど千日手。俺を許してくれないのは、他の誰でもない俺の歪みである。他人の金で遊び呆けて際限なく逃げ道を用意する女達や、腹を切る覚悟を持たずに生きている男達を、俺はきっと許すことができない。冷血な短刀が肋骨と寛骨の間の無防備な柔らかな腹に触れるあの恐ろしい瞬間のことを思う。失敗が転落へと、死へと転がり落ちる張り詰めた曲芸に酒を呑む人間達を、俺は必ず斬殺しなければならない。俺や、代わりの誰かが望んだ訳ではない。至って様式的な結末である。

 この瞬間にも俺の換羽を妨げる幾層もの透明の外殻は、タンポポの綿毛で腋窩を嬲る無邪気な少女のように剥き出しの心臓を撫でて、世界に対する不快感と自己嫌悪の為に海底で燻る独身の巻貝を想起させた。それは毒がある。殺意を宿さなければ不細工な鮟鱇に喰われてしまう。下り勾配が一度ずつ無慈悲に傾いていく機械の島で、若者はみな美しく、もう若くはない者が美しく歳を重ねるというのは難問であった。その内に俺は二十四になって、色々なことに気付くのが遅い人間なのだと気付いてしまう。恐らく今も何か大事なことを見落としていて、後からこの時間のことを後悔するのだろう。忘れてしまわないように、或いは忘れてしまってもいいように、明日からも筆を執り続ける。この声はただ、その残響である。或いはこのテキストにはもう、魔力以外の何ものも宿ってはいないのかも知れない。それでも俺は聞こえぬ声を聞こうとしている。絞り尽くされた深淵に未だ潜んで巨大な新世界が広がっていると、信じるより他に道楽を知らないのだ。