考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

魘夢記

 二回目のワクチン接種副反応に依る熱譫妄の為に二六時中沼田打ち回り、得体の知れぬ脚本を夢幻の中で書いていたような記憶があるが高熱に於いて二時間が六時間にも感じられて時間は伸びたり縮んだりするのかと思って俺の苦しみを悪戯に伸ばすのは何処の誰だと苦みと苛立ちを噛み潰す。噛める物ならば。一日にして夏が終わり今日のような秋口の寒さに白々しい曇り空がどこまでも続いているかのような日──恐ろしい日ではあるが──には断片的なイメージを思い出す。何故思い出すのかは分からない。すれ違った女の香水が昔の女を思い出させるように、肌に張り付く温度と夢のような仄白い空の色は、枯れた井戸の底に沈む俺の記憶を掬い上げる。無用の記憶である。用のある記憶などは高が知れている。雨の日に父親と観た映画を、窓越しの冷気を感じながら温もりを確かめ合った冬の日のことを、それを今思い出したところで二十四年も生きてしまったと悔恨とも焦燥ともつかぬ情動にどこか自虐的に苛まれる限りである。呪われし人生──人生とは総じて呪いであるが──に正気や理性は不要である。人間は長生きできない生き物だ。人生の折り返しを過ぎたか過ぎないか或いは明日にも死んでしまうのか、考えてみたところで死は等しく恐ろしいものである。恋とファナティシズムは同じだ。誰しも恐怖から逃れることを膝に縋ることを許してくれる相手を探している。このような即物的他者にディテール、膝の質感を求めはしないだろう。風邪の日に看病してくれる女が一番愛おしいものだろう。高熱に魘されるとどうでもよいことばかり考えてしまうが、最も重要な問題もどうでもいい問題として扱わなければならない。正気は不要どころか、毒である。毒を以て毒を制すると言うが従ってひとは酒を以て正気を制する。まさに面倒な世の中だ。