考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

ピース

 私たちはカメラを向けられるとなぜピースをするのか。諸君は考えたことがあるか。誰に教えられたかも覚束ないだろう。このような文化侵略性をひとたび知覚すると何気ないピースサインが恐ろしさを帯びてくる。仄聞するところに拠ると、世界に名高い平和主義国の国民たる日本人に顕著な習慣らしいが。のうてんきは漢字で書くと勿論「能天気」であるが、口頭で空んじると私の頭には間違いなく「脳天気」と印字されているのは何であろうか。諸君もそうかもしれないが。本日の脳内御花畑は雲ひとつない快晴絶好のお洗濯日和…、然しながら我々は平和というものに何一つリアリティを持ってはいないものだ。持つ必要もないのだろう。今の日本を平和と見るか、または不平等な社会と見るか、ある瞬間ある場所、─恐らく裕福な誰かにとっての─主観的且つ虚像的な平和を、フラッシュを焚いて切り取っているだけではないか。実体のない平和に包まれてパフォーマンスをしているようである。なかなか良く出来たアートである。

 最近、進歩的な最新時代を象徴するような凄惨な事件が耳に新しいが、加害者及び被害者及び関係界隈のTwitterまで特定されて話題に事欠かないようだ。人間を殺す前の最後のTweet。殺される前の最後のTweet。血に群がる有象無象の倫理観が欠如したTweet。胃袋を素手で掴まれて吐き気が込み上げて来るような生々しい文章に、確かな戦慄と共に底冷えに似た寒気を感じた。その辺の流行りの小説家では到底書けないような醜悪である。人間の最も醜い部分が、醜さに無自覚なままに、如何にも愉快げに笑っているのだ。罪のない人間の死を記念する人間まで現れる地獄絵図を延々と繰り広げている。現実とフィクションの区別が曖昧な人間たちの百鬼夜行に眩暈がする。想像力の問題だろうか。危機感もなく笑っている彼らは被害者予備軍か或いは犯罪者予備軍か或いは…もはや何でも構わないが、善人と悪人の境界は曖昧なものである。

 殺人者の感覚をシミュレーションする癖がある。何も楽しくてやっている訳ではない。幾らやったところで人を殺すという行動が合理化できないことに胸を撫で下ろすべきかどうか逡巡しているが、表現者としては当然その気持ちを知りたいのである。瞼を閉じ─殺人者の瞳に滑り込むと、目の前には仔犬のように怯えた被害者の、瞳が目に入ると今度はその被害者の感覚に滑り込む…。共感の入れ子である。魂というのをオカルトではなくて人間の倫理的なセーフティだと考えてみる。他者の魂を感じられない人間とは潜在的な殺人者である─という論では尚早だが、彼らの備える引き金は、綿菓子のように軽いのだと私は想像する。生まれつきの全盲がそのことを宣告されること無しには盲目であることには気付くことがないように、不感症とは不感症であるが故に自覚し難い性質のものである。家畜や虫や植物を殺すのも同じく、魂を感じるということは殺戮のストッパーであると私には思えるのだ。動物と植物を隔てるものは何であるか。

 今日、共感力が低く排他的な人間が増えている。と、そのように感じる。確証がなければ批判もないが、それを助長する社会構造に悪因があるか人間の本質が暴力であるかのどちらかであるのだと推察する。こんなものはポエムであるが、それにしても証拠のない雲のようなぼやきもいいところなので反省したい。ところで、保育園で子供が暴れて遊んでいる姿を見て人間という種の不完全さを思った。