考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

渚ヘッドショット

 長く続いていた雨が止んだ。頭はまだボヤけているが食事と排泄を繰り返している内に「悪趣味な筒だ」と理解する羽目になった。長く伸びた爪の匂いが気になって、不潔な身体を浜の熱風で消毒することを思いついた。名案だ。生乾きのトレンチコートを掴みサンダルを引っ掛けて家を出た。こういう日に思い切りの良い自分が好きだ。アナウンスの響く密室に一時間も揺られていると「季節も巡るんだな」と生温い脳がめくるめく反芻を開始して、愈愈此の現実感に納得をした。白黒の変な服を着た中年に挟まれて「腐った街から飛び出さなきゃな」と独り言ちた。向かいの女と空中で交わう視線に気不味くなりつつ、電光掲示を盗み見する。この期に及んで降車駅を決め兼ねていた。何処で降りても海に行けるという事実が俺にとっては耐え難い苦痛だった。
「俺は俺の現実を生きている。ところで貴方は貴方の現実を生きているようだが…」俺は濡れた砂の上を重い足取りで蹌踉めくヤドカリに語り掛けている。「貴方の現実は知らないが、そんな重い物棄てたら良いのにな。例えば人間の世界では住宅ローンが死亡保険代わりになるのだぜ。まあ所帯を持ったらの話だな」一方の俺は街々を転々と流浪する人生を望んでいる。土地に縛り付けられた四半世紀から来る羨望だ。所詮他人は時間の交わらない玩具であるから、面白可笑しく遊んで投げて壊して飽きて棄てたら良い。とまれ狂うしかない選択肢が衛星からの電波攻撃によって仕組まれているのだ。雨が降ると頭が可笑しくなるのは分厚い雲が当の電波を遮るからだな。倫理を犯せば暗闇で奴が笑っている……誰…俺だ。俺が何かを言っている。「もう十分だろう?堕ちるとこまで堕ちろよ、お前。幸せなぞ不似合いだぜ。ひと際不幸になれ。そうしたら俺はお前を愛せるんだ」俺は言い返す。「何を言うか。性交よりも楽しいことがなきゃあ困るぜ。人は刺激に慣れる生き物だ。次はお前を殺してやるよ」この街では梅雨が明けると、また梅雨が始まる。雨が降ると頭痛が始まる。雨が降ると何処にも行けない。雨が降ると気が狂う。雨音は気付けば人の姿になり湿っぽい強引な手つきで俺の頭蓋骨が轆轤にされると、部屋にぐちゃぐちゃな赤い体液が飛び散る。俺は膝を抱えて悶えている。「……アレ、海に来た筈じゃないか」

 浜には殆ど裸体の男女がごった返していた。「脱衣が好きなら服なんか捨てればいいのにな」トレンチコートは未だ生乾きで脇の下が気持ち悪かったが、俺は皮膚を包み隠していた。俺は奴らとは違う。服を着るというのは知性の象徴なのだ。「まあいいさ、馬鹿は馬鹿なりに幸せだ。俺の幸せは歪んだ建造物の最上階の眺望さ…」”みんなが幸せならわたしも幸せ”を意味する訓戒をアンプ越しに復唱させられ、深層心理に刷り込まれた哀れな信徒二世が俺なのだった。少なくとも”実践”の為には不幸を減らすかみんなを減らすかしかない。それと不幸を減らすことの不可能さや俺が幸せになる必要性についてはどうか?それはもう諦めた。とは言え結局何度も考証を繰り返す諦めの悪さが諄諄しい。可能性はいつでも喇叭形に窄まっている。破綻した形態をこそ愛さなければ愛は無用の長物ということになる。──喇叭?違うな、遠くで旅行船の汽笛が聞こえている。妄想は現実に引き戻される。捉え所のない現実だ。「世界は疾うの昔に完結していたのだな。思考は猿の玩具さ」行楽客の哄笑に疎外を憂いながら独り言ちる。だから言ったのだ。進歩は危険であると。文明が横辷りを起こすような設計が遺伝子の類稀なるグッド・デザインだ。捕食器官が話術にハイ・ジャックされてからというもの、人間の絶滅は不可避に成り果てた。発明がなければ事態も持続性を失落することはなかったが、異端審問を真面目にやらなかったツケだ。西洋人の尻拭きは屈辱だが…まあいいさ。別にお前らが死のうが。

 灼熱に目が眩んで紫の残像が眼を役立たずにする。砂遊びを辞めて日陰に入る。閉じた瞼の奥で──何処かから唸る重低音が脳に響いて来る。濾過機のモーター音。脳の中の水槽。天面の蛍光灯が水景に幻想的なニュアンスを与えるが、実の所繁殖力の強い種が気の弱い綺麗な種を駆逐している。「お前はたったの三百円。こいつは即売会で二千円もしたんだがな」窓の外を見上げると、沈沈と雨の降る透き通った空気に包み隠されて透明な、羽撃く姿の見えない小鳥たち──自然は心底落ち着き払って朝日を歓迎している。人々の方はどうだか、右も左も時間割と建造物で厭になる。慰めの手法──テーゼがなければアンチテーゼもない。恋をしなければ失恋もしない。それで葛藤も苦しみもない。子供騙しの手品。或る命題について無知であることは一つ分の幸せなのだから、俄然無知蒙昧を誇るべきさ。空高く雲の隙間から堕ちて来る漠然とした退屈に対する防衛の策謀があれば、論理遊びの無限後退に歯止めを掛ける忘却の余暇を、つまり肉体の官能で感覚の庭を敷き詰めること。次いでロゴ入りの衣服を脱ぎ捨てる。ブランドショップはのべつ幕なしに焼却して殺菌。耳も目も口も殊更に不要な、純粋に触覚と官能の世界。平穏な暮らしをしたいのだ。

 瞼を開くと眼前には殺風景なメタファーが広がっている。ビーチとは大小あらゆる拘束具を脱ぎ捨てた裸者たちの楽園。知っての通りそんな場所は既にこの地上に存在しない。現実を排除した妄想の物語。また始まった、お前の悪い性癖だ。自分自身に追われて愈愈苦しい。追われる俺が影の方か?「…卑しい奴め。逃避したいだけだな」俺に見えている世界は、予感と余韻が溶け合う渚。時間の谷間に浮かぶ泡沫が人である。悲しいかな不可避なものだ変化とは。魂の生え変わりを受け入れることだ。俺の指先はあの日魂に触れた。世界で一番綺麗な魂。君を救いたいと思うエゴイスムも下らない郷愁さ。君が今も生きている。それだけだ。欲しいのは従順な恋人。事態はあまりにも非情で、人々はみな模倣品を支給され偽物の人生を謳歌している。そこでは幸福なティータイムもあるだろうが、襟を正した時に首筋にひたと感じる殺伐とした現実の気配──但しそれは幸福そのものではあるが──に気付かないように殊更努めている。背後を見返すような真似はしないことだ。何故ならばその先は地獄の道だと、俺もお前も遥か前から知っている。