考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

りんごの断面

 ある晴れた日曜日。太陽は頭上に高く、時間は恐らく十三時を回ったあたり。二人の男がブランコに座っている。右には白のシャツを着た清潔そうな男。左にはラクダ色のセーターを着た眠たげな男。ブランコは気怠げに揺れる。錆びた鎖は湖畔に浮かんだボートのような音を立てる。右の男は左の男にりんごを差し出す。

「食べるかい?」

 左の男が手を差し伸べると、右の男はりんごを、トランプ遊びのように親指でずらす。りんごはいつの間にか肩から腹にかけて袈裟斬りにされている。斜め45度の風変わりなりんご。

「半分こだ」

 左の男は斜めに切れたりんごのへたを摘まみ、不思議そうに眺める。彼はありがとう、と言ってりんごを口にすると苦虫を嚙んだような顔をする。右の男は不安げに顔を覗き込む。

「口に合わなかったかな」

「僕が半分貰ったから君のが半分になってしまった」

 右の男は豆鉄砲を食らったような顔をして、微笑む。

「僕の幸せと君の幸せで半分以上さ」

「言い方を工夫するだけで世界はハッピーになる」

「ところで僕は君のことが好きだよ」

 左の男は脇腹を小突かれたような顔をする。言葉のニュアンスが分からず聞き返そうか迷ったが、迷っている内に間が空くと益々意味深になると思って簡素に答える。

「ありがとう」

「このりんご、なんて名前だと思う?」

「さあ。つがるとか」

右の男は左の男の瞳を、まるで歯医者が患者の奥歯を凝視するように真っ直ぐ見つめる。こんな晴れた昼下りに、こいつは一体どうしんだろうと左の男は思うが、昼下りに特有の眠気が彼を襲い、推理は中断される。

「答えは?」

「僕も知らないんだ。きっと、このりんごの両親とか友達に聞けば分かると思うんだけど」

「確かに、両親とか友達なら何でも知ってるだろうね」

 今度は右の男が黙り込む。何か不味いことでも言っただろうかと左の男は思案するが、自分にはひとの気持ちを思いやる技術はないのだと思い出し、またしても推理は中断される。彼は行き交う人々に視線を移す。そうやって行き交う人々を見るのが彼は好きなのだ。

「お隣さんのシングルマザーが風俗嬢と駆け落ちしたんだ」

 眠たげな視線が、また右の男に注がれる。

「回覧板に乗ってた?」

「いつどこで出会って、どうして恋に落ちたんだろうって考えるけど、考えたところでひとの気持ちは分からないものだ」

「間の子供はどんな気持ちだったんだろう」

「お母さんが二人に増えて嬉しいんじゃないかな」

 お母さんが二人に増えたら嬉しいのだろうか、と左の男は考える。家事育児を分担できて案外いいのかもしれないなと彼は思う。母乳を与える母の乳房と、包丁を握る母の右手。部屋を見回しても父親の姿はない。

「君はナイフでも持ち歩いてるのか?」

「ナイフ?」

「さっきのりんごはいつの間に切ったんだ」

「どのりんご?」

「いま食べたりんごのことじゃないか」

「どこにあるりんご?」

「お腹の中さ」

「さあ、覚えてないな」

 本気とも冗談ともつかない物言いだ、と左の男は思う。彼はふっと笑って右の男の左手を指さす。男の指先は三本指でりんごの芯の下半分をつまんでいる。クレーンゲームの爪のようにわざとらしく指が開いて、りんごの芯は地面に落ちる。少し転がって砂を被る。

「りんごなんか食べたかな」

「君の冗談は時々、随分とつまらない」

「見ろよあれ。鳩が喧嘩してる」

 左の男は右の男の掴みどころのない態度の真意を探る。彼はひとを思いやる技術がないと自分を評価するが、一方でそれが必要なタイミングもあるのだと思っている。比較的に気が短い彼は疑問を直接言葉にしようとするが、眠気に襲われた彼の頭では、何を言葉にすればいいか分からない。

 唐突に彼は、隣の男の頬を引き寄せてキスをする。不意に接触された唇は一瞬驚いて力が入るが、かと言って抵抗の仕草はせず、入り口が開いていく。初めどちらか一方の唇が乾燥していたが、二つの唇の間で潤いが共有され、どちらとも分からなくなる。絡まった唇の少し上の方にある四つの丸窓は、それぞれの住人のタイミングでゆっくりとカーテンが降ろされる。

 二人は短い時間、実際には数秒程度の時間だけキスをしていた。左の男には実際の時間の何倍にも感じられた。だからこそ彼はただの数秒で唇を離す。カーテンが捲られて、窓越しに住人同士の眼が合う。気まずさに耐え兼ねたのか、彼は尋ねる。

「……何の味がした?」

 右の男の唇の口角が僅かに上がる。笑っているのだろうかと彼は考える。

「君の味」

 日曜日の十三時に相応しい柔らかな笑み。風が吹いて、辺りに漂っていた眠気が北西に流された。左の男は急に恥ずかしくなって目を伏せる。砂を被ったりんごの芯にはもう蟻が集まっている。

思念する魚・エコーチェンバー

「才能を煮詰めたコッテリ系のグレッチで脳天殴たれたら、冷凍庫に隠してた自信も水になっちまう。きっと、春に解ける氷像みたいなスローライフを送ったらいいんだ。そうだ、その通りにしよう。」

 千度目の夜、崇拝と絶望の混濁した畏怖の感情に俺は打ちひしがれていた。顎の筋肉は腐り、涙は奴隷のように滴った。勝負など土台存在しなかったに関わらず、負け犬の顔をした。千の夜を迎える前、朝の時代。俺は劣等感の概念を理解しなかった。俺は無垢だった。昆虫類やら爬虫類やらに目を奪われていた少年は才能という言葉さえ知らなかった。だがそれらの朝々も追憶の彼方。

 神と悪魔を練り込んだ因果から寵愛を受けたソイツの才能は、粗野な俺を撃ち抜く銃に見えた。この透明の銃はお前たちにも見えるだろうか? 奇跡という言葉の相応しいソイツの才能は人生を捨てたのではなく、ひたすら欠損したらしい。人権などは疾うに話にならない。自惚。倨傲。井蛙。掃いては捨てる泡沫。俺の精神の強度は如何程のものか、近代の鉄槌で叩いてみるか? 強度が問題なものか。元素の構成が鉱石の性質を決めるのだ。凝り固まっていようが人間の引っ越しなどできない相談だ。古来、魔術師は種明かしをしちゃならんと決まってる。魔法が解ければペテン師に成り果てるからだ。……とは言え、ペテン師が魔法を使えばこの愉快なサーカスも大盛況だろう。例の透明の銃口を舐めたやつは立ちどころにペテン師呼ばわりだから、海まで流された蛙は諦めるしかないな。

 打ち砕かれた動物たち。小さな檻に箱詰めにされたヤマアラシは、身動きも取れず自重でお互いを貫き合う。弱い者には棘が欠かせない。棘が悪いか? 異議有! 棘が生えるのは生まれつきだ! 悪いのはこの世の檻だ!……どこもかしこも大きいヤツが得をする。象の背丈は大陸に比例する。象には天敵がないから、銃弾のみが殺戮をする。そいつは何故? 美が金になるからだ。なのに金が美にならないのは囚人の刺青みたいだな。

「芸術は人間を壊す。壊れた人間が愛おしいにせよ。」内蔵を剥き出しで歩くように、俺はほろりと愚痴を溢した。牛を搾り尽くして終いには肉にするように、終いには肉にされてしまうんだ。肉にされてトレーと一緒にラップに巻かれてお終いさ。せめて終いまでは牛でいさせてくれないものか。普通に自由に生きさせてくれ……奴隷の懇願か? 笑わせる。

 

 その昔、俺の換羽を妨げた透明の外殻は脱ぎ棄てるハプニングによってではない、忽然の蒸発によって過去においてさえ消え失せた。不条理を心得た俺はこれを破壊と呼んだ。破壊は元に戻り得ない変容を指す言葉だ。迷路は紙の上だ。暗い部屋で焚き火をする時が来たのだ。絡まった糸などはよく燃えた。またまた同じ三叉路、今度の俺の手元に残ったものは果たして何だ? 鋏と花束。花束は誰へ渡すものだったか。誰かから贈られたものだったか。昨日産まれた俺は何も知らない。無知を糾弾したその顔にさえ、覚えがない。チクリ。胸が痛む。誰かの棘だ。なら、煙草を吸うのはやめた方がいい。吸ってるものも何の味か分からない。胸が、指先で押さえてみるとそいつは胸ではない。呼び鈴だった。俺はナースを呼んだ。俺の代わりに記憶を代行する不思議なブギー・ナース。白い服を着ていれば誰だって許される病棟に辟易していた。

 ぬるい布団への潜航。夢は明瞭となり、現実は朦朧とする。俺は躓いた。車両留めに、階段に、崖の上に。でも、これは夢だから。だから、これは夢で……。でも、これは、夢で……うん……そう……そう、大丈夫。そうさ、蝮の君の言う通り。フィアンセの蛇もこんにちは。フィアンセに睨まれて俺は金縛りに遭っている。背の高い影が俺の右手を影の右手で、左手を左手で引っ張り上げる。温度のない硬いだけの指。俺の顔に空いた68の穴から叫び声が這い出た。「死神はまだ来るな!これは夢だ!俺を攫うな!川の砂と同じにするな!俺は魚だって何度も言わせるな!」

 ……と、警察官に叫んだ魔物は、粉を買うと鰓呼吸を開始した。出口のない入り口に注意書きがないのは魔物の爪が長くて柔らかいせいだ。だからこそ、魔物にそぐわない甘い香水が俺を迷路に繋ぎ止めた。天井の雨漏りの染みから囁き声が聞こえた。

「爪を剥げばね、新しい爪が生えてくるよ。」

 

 ……眠ると言うより意識が飛んだ。飛んだ先ではそれなりに人生を謳歌する主人公。夢を見ている「K」の方が生きるのが上手いみたいだ。でも俺は「K」になれない。奇数と偶数が鋭角でしかないように、俺は「K」の考えてることを覚えてはいない。夢を見ている「K」は幸せそうだが、俺は幸せを追いかける内に、幸せに追われる羽目に遭った。俺の人生にPKみたいな瞬間があったら身体中の内臓がひっくり返って明後日の方向に飛んで行くのだ。どう足掻いても仕損じる。可愛いものを刈り取るのはダメだ。花はそこに生えてるだけでいい。それ以上は人間から来る不純な欲望だ。なんだ、俺は眠ってないのか? いつも通り眠ったことにしよう。一瞬が永遠になり、数時間は一瞬になる。理の通用しない部分が現実に侵食し始めた……。

 本が常に奇数と偶数で背中合わせになるように、欲求は鏡合わせの理によって凭れ合う。もしそうではなくて自立的な人間が目の前に現れたなら、俺はソイツを恐怖する。お前が何かになりたいと思うならば、何かでない自分を嫌悪し、何かでないことに安堵している。嫌悪と嗜好が四つに組むと、噛み合わさった寄せ木が鉄よりも硬くなる。硬いからなんだ。壊そうと思えば大抵のものは壊せるさ。特に現実が一番脆いだろう。

 68個の穴が空いている。そこには瞬きをしない監視者たちが住んでいて、68個の瞳が俺に向けて注がれる。十字に並んだ均質。癖で穴を覗き込む。だからソイツらを知っている。俺は怒って鋏を開く。やたらと穴を繋げれば奴らは持ち場が分からなくなって、血のシャワーが溢れ出す。いい気味さ。強迫観念と欲望の変身が人間を作っている。人の間と書いてその名前を冠する自信のない生き物。他の何かとの距離で自分の大きさを測るようでは下衆野郎さ。見た目よりもその偶数性がいかに歪んでいるかを測るのがいい。ガラスの割れたように個性的な自意識が自信の源なのだし、整合性を一息に割っちまったら何でもかんでも笑えるものさ。

拝啓犬様

犬様

拝啓

 寒さもひとしお身にしみる頃となりましたが、犬様におかれましてはご活躍のこととお喜び申し上げます。犬様のお陰様で、私もささやかながら幸せな日々を暮らしています。

 人の世は相変わらず騒がしいものです。私は美しい人と美しくない人を勝手にラベル付けして、前者を勝手に愛して、後者を勝手に軽蔑していますが、生まれ変わったら犬様のような屈託のない犬になりたいと思っています。そうしたら勿論ピッツァも食べたいです。犬はピッツァを好きなだけ食べれるのだから羨ましく思います。それから、不在の第三者を性的に消費する発言をしてしまう人も頗る気持ちの悪いものです。殿方はみな不潔な心しか持っていないとお母さまは常々仰いますが、本当にその通りだと思います。

 しかしながら、不文律は規律ではありませんので宣言していない人が悪いのだそうです。(これはお父さまの受け売りです。ここだけの話、お父様っていつもちんぷんかんぷんなことを仰います)人の世って摩訶不思議アドベンチャーだと思いませんか? これもいい機会ですから、気持ちの悪い人たちも生まれ変わって犬様のように素敵な犬になればいいのにと思います。犬は生まれ変わっても何かになれませんので、それも丁度いいと思います。

 かれこれ、芸術という言葉をもう殆ど使わないようになりました。代わりにそれらを現実と呼んでいます。私にとっては切実な響きです。通常、人を人たらしめるものは挨拶と時計ではありますが、実はそれらは努力なのです。努力を忘れると容易に人は人でなくなってしまいます。それ以外の道筋でも、人間性を喪失する目に見えない抜け穴が幾つもあって、芸術はその内の一つだと私は考えています。これって悪い意味で言っていますのよ。犬様はご存知でしょうか? 芸術というのは、実は名古屋なのです。そして名古屋の先には新大阪があるのです。新大阪は現実だと私は思います。でもそれはマヤカシです。本当は現実を作らなければなりません。新大阪もいずれは名古屋になるからです。(私の言いたいこと、犬様なら分かりますよね)

 もう年の瀬ですからこの際色々と白状致します。乙女の懺悔ですから、どうか聞いてやってください。私のような嫉妬深い徒人は、簡単な方法で人生を手に入れることが許せないのです。人は易きに流れますが、大事なことは美を船に乗せて漕ぐことです。漕いでいる限りは人もまた美の一部なのです。船を捨てるような、人のお金で豪華客船に乗るような簡単な方法で人生を手にするような軟弱者にはならないで欲しいのです。その意味では、私って凄く嫉妬深い人間です。辛い現実に立ち向かって欲しい、孤軍奮闘して欲しい、と美しい人々により一層美しくなあれと日々おまじないを掛けています。そういう人だけが持つ美しさを見るのがとっても好きだからです。お化粧の上手な女の子よりもずっと素敵だと私は思います。私は美を人に押し付けてしまいますが、犬様にもそういった押し付けがましさってあるでしょうか?

 これは私の信念のようなものなのですが、愛した人は臓器になると思っています。臓器といっても内蔵ではなくて、体の外にある臓器のことです。胃や心臓や肺や性器は、それらのことを考えるだけで、そこに確かに感じることを嬉しく思います。でも時々怖いなとも思います。朝目が覚めた時に、お布団でぬくぬくしながら自分の心臓の音を聞いていると、何だかいつ止まってもおかしくないと考え始めてしまって、それが怖くて飛び起きるのです。内蔵は考えるだけでいつでもそこに在ります。それに対して外臓はどうでしょう(外臓というのは臓器になった愛した人のことです)、考えるだけでそこに在るんでしょうか? でも、それらは考えるだけでそこには在りません。言葉の区切りは存在の区切りですから、内臓とは存在の異なるそれらは考えるだけでそこには居てくれないのです。どうしても寂しくて一緒にいてくれることを望むのなら、存在の仕方を変えてあげないといけません。要するに殺してあげないといけません。死んだ人はいつも背中と瞼の裏に居てくれます。考えるだけでそこにいてくれます。こんな時、犬様もお側にいてくれればいいのにと思います。こんな事を言っても仕様がありませんよね。幽霊になれるのは人だけです。

 先日、お母さまと銀座でお買い物をして、それから中央通りのフルーツパーラーへ行きました。苺のたくさん乗ったパフェを食べて、とても美味しかったのですが、そこで永遠に八分ずれる時計のお話をしました。お母さまのお家の時計の歯車がどうもずれているようなのです。私が行って中を弄れば直すこともできるでしょう。(私って実はそういうことにも詳しいんです)でも、八分ずれた時計は一分ずれた時計より面白いのでそのままにしておきましょうということでそのお話は落ちがつきました。お母さまは賢い人ですが、チャーミングなところがあります。基本的に、お母さまとはお花と紅茶のお話しかしません。考えてみると、どちらも植物の話です。人が植物を育てるのは、何かを愛するためのトレーニングなのだと私は思います。子供を育てるということは並々ならぬ活力の要ることです。殿方には真似できないことだと私は思います。母という生き物は、その並々ならぬ愛を数十年にも渡って持ち続けるのですから、子が巣立って行っても、何かを育てるのをやめられないのだと私は思います。それは挨拶や時計と同じように、努力しなければ喪ってしまう幾つもの人間性の欠片の一つなのです。

 人は自分自身の体を細かく欠片で分類して、そこに名前をつけました。これは犬はやらないことですよね。それに加えて、医療や化学の盛んな研究によって、人は自分自身の欠片を組み替えることを可能にしました。これは名前をつけたからできることです。内蔵も、血液も、顔も、遺伝子も、組み替えることができるようになりました。これも、犬はやらないことですよね。偉大な科学者のように、社会をより良くしようと思うことは、やはり美の船を漕ぐことなのだと思います。そうでなければ、まだ名前のない子供たちのために努力することは難しいからです。名前や姿のないものを慈しむというのは難しいことです。例え傍らに、ひょっとするとこの世に居なくても、名前を呼べばそこに居てくれるような気がします。だから名前ってとても大事なんです。ねえ、犬様?

 そう、名前と言えばなのですが、幼い私はお父さまに「お名前はなぜ必要なの」と尋ねたことがあります。子供って時々難しいことを聞くものですよね。そうしたら、お父さまったら七歳の私に「墓標に刻むためにつけるのだ」と仰いました。その時のお父さまの表情さえも鮮明に覚えていますから、決して夢ではありません。希望のないことを子供に教える甲斐性なしなところが、きっとお母さまに愛想を尽かされた理由なのだと思います。でも、その日の私は犬様にもお名前があればよかったのに、と思いました。もしかすると、お父さまも同じことを思ったからそんなことを仰ったのかもしれませんね。歳を取ってから悔やんでも過去は変えられないものです。

 このお手紙が届く頃にはもうクリスマスですね。私は毎年のことながらお母様とささやかなクリスマスパーティーを計画しています。犬様は特別な日を誰とお過ごしになるんでしょうか? 差し支えなければ私にだけ内緒でお知らせくださいね。年内のお手紙はこれが最後になることと思いますが、そちらでもお元気にお過ごしください。

             かしこ

十二月二〇日

            〇×院△子

犬様

宿木姫

 私が私だった頃の事を思い出す。私の人生は喪ったものを取り戻す旅路だった。そして喪う為の旅路だった。どこからか降ってきた涙が目を潤した。きっとお空の誰かが泣いたのだろう。私は哀しくないのだから。

 段々と目が醒めていく。夢のような真っ白なドレスを着ている。今日は人生一度きりの晴れの日だった。ドレスに似合うような素敵なお化粧をしないといけない。鏡の向こうの世界、花嫁姿の虚像の奥にある不在へ問いかける。

「あなたはまだ生きているの?」

 はい、か、いいえ、で答えて欲しい。私はそれだけを知りたかった。

*  *  *

 足元を照らすと道が続いていた。鉄道のように、枕木が永遠に等間隔に続く道ならばどこへ続いていようが別に構わなかった。だが道はとっくにレールでも何でもない構造物の紛い物で、遠目から見るとそれとは気付きにくい精巧なものだった。

 物質界において道とは先人が作ったものだが、私が今居るところは物質界とは似て非なる世界で、あらゆる構造物を観察すると逆進的に物質に還元することが難しいアプリオリだった。この世界においては雛は卵から孵ったのではなく、雛は雛として誕生していた。雛が親鳥になることは永遠になく、親鳥が暖める卵は永遠に孵らなかった。私にとってはどれもただの食材だ。存在が循環することはあり得ないが、ある意味では完成されている。然しながら、この道の紛い物は、その最果てに辿り着くことが永遠にない形而上体であるだろうか。そうとしたときにこれは道と呼ぶべきものだろうか。多分、既にもう違うのだろう。道によく似た、けれども確実にそれとは異なる得体の知れないものを私は地面として了承していた。そうでなければ存在さえもままならないのだから私にはそれを拒絶する術はなく、その存在の故に道の上を独り、歩き出していた。

 道中多くの人間に出逢った。誰もが個性的でみなそれぞれの輝かしい人生を邁進していた。けれども、私はその内の誰とも心の底から理解を交わすことはなかった。道は接近することはあれど、決して交わることはない。彼らの道が被造物なのか、それとも私のものと同じ発生物なのか。私はそのことを知りたかったが、当然遠目で見る分には構造的な道の上を歩いており、真実を観察することはできなかった。ふと背後から近付く足音。横に並ぶ。綻んだ面構えの婦人。声を掛けてみる。

……ごきげんよう……ごきげんよう、御嬢さん。どちらからいらしたの?……どちらからというのは覚えていないの……あら、そうなの。では質問を変えて、これからどちらへ行かれるの?……どちらへというのも知らないんです……難儀なのね。私はこれからヨーロッパへ行くのよ……ヨーロッパのどこですか……まだ迷っているの。ドイツかオーストリアか。でも途中までは一緒だから……素敵な道を歩いていらっしゃるんですね……ええ。私は素敵な女性になりたいの。あなたには夢はあるのかしら……夢。夢。なんとなく懐かしい響き。私はそれを探しているのかも知れません……そうなのね。見つかるといいわね。私先を急ぐので、ごめんあそばせ……さようなら……

 行き交う人々ともう少し短いやり取りが何度かあって、私はそれらに退屈していた。どこまで行こうともこの道は紛い物なのだ。偏にその記号の故に私は歩くことを余儀なくしていたが、疾うに私は歩くことに飽いていた。もっと大事なことを忘れているような気がする。歩くか休むかしかない一本道のこの世界に私の身体は馴染んでいなかった。私の居るべき場所はここではない。横道のない代わりに、道の右側と左側には光の一筋さえ通らない暗黒が拡がっている。寝そべって手を伸ばしてみる。何にも触れられない。ポケットに入っていたコインを放り投げてみる。コインはどこまでも落下して行って、点になって、それから消えた。道の先にも道の下には何も存在しないのだ。私は途端に全てがどうでもよくなって、果てのない一本道から飛び降りた。

*  *  *

 そこは女と動物の匂いの充満する1LDKだった。絨毯には請求書と診断書が乱雑に拡げられ、ローテーブルには灰皿、無数のライター、空き缶、まだ入った缶、錆び付いたカッター、絡まったイヤフォン、包帯、軟膏、笑顔の少女の写真。多分この部屋の住人だろう。彼女は居ない。どこへ行ってしまったのだろうか。

「タビダッテシマッタヨ」

 声のするのはドアの脇の重ねられた黒い檻の中。トサカがやけに長い、白い鸚鵡が調子外れな声で話しかける。

……どこへ旅立ったの……タビダッテシマッタヨ……どこへ……タビダッテシマッタヨ……君はそれしか言えないんだね……タビダッテシマッタヨ……教えてくれてありがとう……ケレドモワタシハオリノナカ……ごめんね、君を出してあげていいものか分からないんだ……ケレドモワタシハオリノナカ……

 冷蔵庫の側のメタルラックに鳥の絵と英語の描かれた袋を見つけ、封を開ける、仄かに酸味掛かったドライフルーツの香り。餌入れに山盛りに注いで檻の中に滑らせる。羽搏いて興奮する鸚鵡。

……ご主人様が帰ってくるまでこれで我慢してね……ガッツクナヨガッツクナヨ……

 私の右手はドアノブを掴む。既に私は紛い物の道を歩いてはいない。踏み均された道はなく、行き先は自分で選んでいかなければどこへも辿り着けないのだ。鸚鵡の言う通りこの部屋の少女が旅立ってしまったというのなら、私も旅に出掛けてみよう。そうすればきっと夢が見つかるはずだ。私は鉄のドアを押す。隙間から閃光が目に飛び込む。この光の先が私の居るべき本当の世界なのだという予感を信じる。

*  *  *

 行き先もなく旅をした。お金が無くなったら路地裏で体を売った。特に辛いとは思わなかった。少なくとも夢に向かって進んでいるということが確かならば他のすべては些末な事象として受け入れた。私の夢。きっと素敵な夢なはずだ。私はそれを見つけるだけでいい。ある冬の日に薄着で路地に突っ立っていると、珍しく清潔そうな若い男が話しかけてきた。

……君、どうしたの。寒くないのかい……ホベツイチゴ。やりたいの……帰る家はあるのかい……家なんかないのよ。私は旅をしているの……旅を……それで。やるの。やらないの……行くところがないならうちへ来ないかい。今日はおでんを作るんだ……おでんって何かしら……君、おでん食べたことないの。温まるよ。さあ、おいで……

 若い男は黴臭いジャケットを私に着せるとを手を掴んで強引に連れ去った。ごつごつとして乾いた、冷たい手。おでんって何かしら。肉料理?魚料理?そんなことを想いながら男に付いていく。男は木造アパートの狭いワンルームに住んでいた。小さなベッド、観葉植物、沢山の酒瓶、テレビ、テーブルには料理の雑誌と小説の単行本。比較的に片付いた部屋。

……少し時間かかるからくつろいでいて。お茶かココアでも飲むかい……ココアって何かしら……ミルクとチョコレートを溶かした飲み物だよ……へえ。不思議ね。それ頂戴……旅をしているって言ったけど、どこから来たの……どこからというのは覚えてない……なら目的地はあるの……夢を探して旅をしているの……夢か。君は変わってるね……これがココア?熱いのね。甘い……お風呂も使いたかったら使って。着替えも貸すから……

 若い男は私に優しくした。きっとセックスがしたいのだろう。私はシャワーを浴びる。私はいつも排水口に流れ込む水の渦を眺めている。黒い穴に飲まれる水はどこへ落ちていくのだろうと考える。ステンレスの蓋を開ける。既視感のある黒い穴。水はどこへ行くのだろう。私も連れて行ってくれないだろうか。私は吸い込まれるように、穴へと落下していった。

 私は柔らかいベッドで眠っていた。隣には若い男がいる。男は何故だか微笑んでいる。

……おはよう。大丈夫かい……ここはどこ……僕の家だよ。ご飯も食べずに寝ちゃってたみたいだから……そう。お腹空いたわ……鍋温め直すよ……私、夢落っことしちゃったの。だからずっと探してる……僕も夢を失くしちゃったんだ。だから君のことが気になったのかもしれないね……何の夢失くしたの……幸せに生きることかな……私とセックスしたい?……そういうのじゃないよ……じゃあ私と結婚したい?そしたら幸せに生きられる?……君はどうしたいの……私は夢を見つけられれば他はどうでもいいの。どこから来たかは忘れたけれど、大事なのはどうなりたいかの方じゃないのかしら……よければ少し一緒にいてくれないかい。君のことをもっと知りたい……

*  *  *

 一年ほどして男は私と結婚した。男は夢を見つけたと語った。男の見る夢を、私は自分のものにすることにした。男の勧めで私は病院に通った。医者の診断では私は過去の私とは別の人格ということらしい。投薬とリハビリを暫く続けたが、以前の記憶を取り戻すことはなかった。もはや私にとって私がどこから来たかということなど些末な事実だったが、紛い物の私に乗っ取られた過去の私がまだ生きているのなら、彼女は何を想っているのだろうか。彼女の本当の夢は何だったのか。何度問い掛けても答えが返ってくることはなく、私は罪悪感を忘れた。

泥の羊水

 臍の緒が切れると、人間はマザーコンプレックスを発症する。恋とは、ただ繋がっているという安心感を求める感情だ。裏切りを恐れ、人間を恐れ、それでも誰かを信じてみる。常に片手落ちの信頼だ。中華料理店の店員に向ける程度の信頼。俺は核兵器が好きだ。人間も動物も残らず死ぬべきだから。すべての暴力を飲み込む暴力で、地上を枯れた荒れ地に変えてしまえるボタンが好きだ。胸の内は窓越しの遠雷のように騒めいている。電線の繋がる先、南の彼方に目を遣る。距離感を失ってしまう気味の悪い白い空が延々と続いている。じめじめした夏は嫌いだ。短くて過ぎ去る秋が好きだ。愛やら嘘やらとは無縁な、ぽつんとした幽寂。ビートルズは秋の音楽だと思うから、好きだ。

 氷が融ける時のような柔らかさ、角の取れた暖かな氷。ぬるくなった水のようでもなく皮膚の焼ける氷のようでもない時間。気持ちのいい爽やかな湿度。氷のような愛情と、製氷機のような青春。音楽は染み渡り、アルコールは頬を溶かす。目を閉じれば身体中が溶かされている、フワフワな呼吸。火照った舌を冷やす為に氷を作る、そういう役目の機械。思ったことを言葉にする。そうしなければ忘れてしまう何か。掛け替えがない癖にすぐに行方を晦ます感情……。日差しの白む秋の廊下にだけある孤独のような感傷。エッセイは捕まえた残像を書き残している夢日記のような性質のものだ。時間に奪われる感傷を取り戻すためにのみ記録はなされる。

 嘘にはコウノトリのような吐くべき嘘と、暴力家の吐く利己的な嘘とある。冷蔵庫のプリンを食べていないと言い張る子供のような可愛げのある嘘なら、嘘だって顔に書いてあるから別に構いやしないさ。片一方で、吐きたくて吐くような嘘を垂れ流す、裏表のある人間の歪さへ遠くから想いを馳せてみる。歪さを嫌悪していることには変わりはないが、離れた心が近づくことはもうないのだから。薄まった毒ならば珍味として扱ったっていい。悪人に共感する自傷的療法への妄執に、俺は囚われている。

 昨日の晩に練った邪気も、蒸し暑い南風に吹かれて流された。埃を被った置き物を捨てることで新しい物を置くスペースができる。空間ができると爽やかな風が吹いてくる。隙間風だ。視界が開いて、空が青かったことを思い出す。そんな大事なことを忘れていたことにさえ愕然とする。本当に大事な物は捨てることで消えたりはしない。物がそれほどの重要性を持っていることが、まずあり得ない話だ。開けた青空は、俺が物に呪われていることを教えてくれる。物の怨念に日々の活力を吸い取られていたのだ。寝ることしかできない部屋というのは、実際よりも狭く感じられる。さしづめ家に帰れないで、癒しを求めて歓楽街をほっつき歩く羽目になる。帰る家に空き地を作らなければ窮屈な日々を過ごさなければならないのだ。習慣的な掃除。梅雨にのしかかる湿気を吹き飛ばさないと体の内側から黴てきてしまう。

 気分屋の空気。耐え難い暑さから逃れるべく、自転車に乗って風になる。駅前の空き地には一体どんな建物が建つのかと思っていたら、新たに墓標のような高層マンションができていた。俺の住む街は、一層面白みのない街になっていたようだ。昔は巨大な娯楽施設があった土地であったが、覚えているのはそれなりの古参者だけだ。移り住んでくる若年夫婦にとっては埋立地と代わり映えのない街だ。都心部に無数にあるオフィスの複製と行き帰りするだけの空っぽの宿であったとしても、生まれてくる赤子にとっては忘れがたき原風景になる。そのことが、何故だか悲しく思えた。

 

 

 射影。枯れたイチョウの木の下の白い残像へ眠る旭日。射影。巨大な蒸気の音に彼ら同士では無関心な群像劇。射影。取り戻しようのない一瞬の世界の傾き。次の一瞬では世界は完全に失われている。衝突し続ける未来から失われた世界を、新しい世界で俺はただ愛している。その愛も、思いつく限りの手を施したところで見る影もなく蒸発してしまう。溶ける前の氷菓の写真を撮ることでしか形を世界に繋ぎ止めておくことはできない。蒸れっぽい一陣の熱風に、飾りの付いた夏のキッチンカーが白飛びする。アイスクリームの売っている夢のような緑の車……。先だって重い瞼を開くことだ。何のことはないさ。世界は最初から開かれている。俺にそれを見つめる気力が残っているかどうかだけが、個人的な問題だ。気力を起せ、相変わらず弱気なやつ。

 爽やかな遊び。刈り揃えられた芝生を踏む音が響く閑居。芝生を踏み鳴らして柔らかいボールをやり取りする遊び。光の柔らかさに包まれるだけの快楽──否、そんな情景は忌まわしき惰性だ。俺の求めるのは血が沸騰するかどうかだけだろう。俺の事は誰よりも俺自身が一番理解している。人間の底に溜まった泥濘にのみ関心を持つ、俺。乱雑に掬おうとすると上澄みと混じって泥水に消える川底の堆積。人間というのは通常生活している限りでは濁った泥水の状態なのだ。人間の底を見るには慎重に近付いて信頼を得、咽喉から手を入れて心臓を掴まなくてはならない。愈愈心臓を掴んだところで裏切りを悟った間抜けな魚顔を観察するのだ。俺の心臓も魚のぬたうちと同期し高鳴って、漸く生きていることを感じられる。或いは、そんなやり方でしかもう人間を愛せないのかも知れない。魚と思うことでしか……。人間に本質なんてものがあるとするのならそれは暴力だ。特に、自分を善良な人間と思い込んでいる人間ほど禍々しい暴力を撒き散らしている。当然、俺もしがない暴力家なのだ。

 この胸に痼るものは決着をつけるべき後ろめたさだ。俺が俺を解放する、その為の懺悔だ。だが、結局それが何を結末するか俺自身想像の外にある。高まるこの鼓動が何なのか、性への衝動ではないらしいことを俺はどこか残念がっている。俺は俺を開示する。母親に慰められる子供のような抱擁。マザーコンプレックスの変異だ。人の体は最初から抱きしめ合う為の形をしている。だから、安心する。人間は単純だ。俺はただ、その単純過ぎる衝動に論理を結びつけてやらなければ得体の知れないものを信用できない臆病さを足蹴にできないでいる。

 罪作りと贖罪が全く等価だと、一体誰が想像し得ただろうか。現象とは西瓜を二等分にするのと全く同じ仕組みである。光が当たることと影を作ることが合わせ鏡なのと同じことである。そうなれば行動と信念、善と悪、本能と理性のような対立は、闇雲に対立しているだけの「捻れた童話」であるように考えられる。けれども、思考と快楽もまた自分語り的な童話に成り果てることは当然の帰結だ。人間への不快感を持ちながら、人間像への憧れを失わずにいる俺の理性もまた、因果に分解される以前の起こるべく事象の領域に刻印されていると俺は信じている。個々の信仰は自由だからだ。そうでなければこの文字列は現実に刻まれ得ないだろうさ。

 当然認められるべき自然的な部分。これを一つの定理として定め、思索を始めよう。インテリの言う「構築」や「脱構築」とは結局のところ、一つの信念に基づいた信仰心の顕現だ。俺は当然人間であり、動物であり、数十瓩のタンパク質であり、歩く道や躓くべき小石を予期する知性であり、知性を否定する愚かな矛盾でもある。これらの列挙だって当然認められるべき自然的な部分だ。認めるという手続きが人間的過ぎるが、人間の思考を通してしか人間は思考できないという自然的事実によって無効化できるネガティブだろう。俺は俺の思うままに思考し、行動することを与えられている。それであれば、罪悪感に何の意味があるのか。論理で捕らえることは困難な複合物だ。論理の眼鏡を通せば単純にダブルスタンダードであるという事実が見えるだけだが、それでは一面的だ。サイコロでさえ六面あるのだから、現実が一面であるというのは到底考えられない。暫定的な解として、世界は矛盾している。そうでなければ胸が痛むようなこともないのだから。

売り物の花と舌の上の宇宙人

 僕が思うに、選択肢の多さは人生にはむしろマイナスに働く。要らない可能性の芽を摘んでいって、育てたい可能性の芽にだけたっぷり栄養をやる。大きくて綺麗な花を咲かす為には自然を否定して、人工性を寛容しなけりゃならない。目の前に在るもの、目に映るものは嘘ではないけれど、存在の後ろには嘘が隠れている。隠れているものは暴かれなければ確率のままでいられる。売り物の花を咲かす為にはひとを騙すことを寛容しなけりゃならないらしい。親も友達も騙さなきゃならないから、売り物の花は孤独なのだと。野花とどちらが幸せかという問いは僕には無意味に思われる。だって僕たちは花じゃないから。でも僕たちは人間だから、類推でものを考える。蟻や天体を観察して世の中のことを知る。でも僕は別に、世の中の全てを知りたい訳じゃない。地球が真っ平らでもいいし、宇宙が沢山あったっていいし、神は居ても居なくてもいい。僕にとって重要なことは、どうやって満足するかという問題だけだ。人生を満足する生き方、今日を満足する考え方、今を満足する過ごし方。それが重要なことなんだ。万物の法則とか世界の裏側なんかにはサラサラ興味がない。オカルト趣味のひとも中には居たって構わないけど。

 僕は今食べている魚のメインディッシュがどうやって調理されたのか、良く味わって考察している。レモン、バター、白ワイン、大蒜、胡椒の実、エシャロットに……マッシュルームか。洗練された食材のバランスに感嘆することが僕にとっては人生の楽しみだ。小難しいことというのは、単に小難しさの為にだけあるんじゃないかと僕は思っている。それはそういう娯楽だから。主義の数だけ趣味があると僕は考えている。食材と調味料の複雑さが特定のバランスに調和した時に僕たちは美味を味わえる。きっと小難しいことにも洗練された小難しさのバランスがあるんだろう、と僕は類推する。でも僕にとっては舌の上が宇宙だ。宇宙の内側も外側も、美味の為に奉仕する従業員なのだ。問題は実際に従業しなけりゃ美味い飯にはありつけないってことだな。だから僕の人生の生き方は美味の問題を北極星に据えている。航海にはどうしても余分なものがいくらかはあるけれど、基本的には舌の上の問題を考えればいいのだから、近頃見かける病んだ若者よりは幸せに生きているんじゃないかと思う。あの病んだ若者たちが何で病んでいるのか僕は知らないけれど、同時に知りたいとも思わない。正体のわからない不幸を伝染されちゃたまらないから。これは病気の類推。僕は世の中を平らな地球のように考えている。地球は平らじゃないんだってひとは言うけれど、考えてみたら平らでもそうじゃなくても僕は特に困らないからどっちでも良い。

 先日一緒にイタリアンバルへ行った友人が、”売り物の花”の生き方について熱弁をしていた。「売り物の花を咲かす為にはひとを騙すことを寛容しなけりゃならない」というのは彼の言葉だ。「親も友達も騙さなきゃならないから売り物の花は孤独なんだ」と、何でか哀しそうな言い方をする。「そうすると僕も君に騙されているのかい?」と尋ねてみた。「ああそうだよ、俺はお前を騙している」と彼は答えた。なるほど、可哀想なやつだ。と僕は思った。何でそんな不都合な生き方を選んでいるのか僕には分からないけれど、同時に分かりたいとも思わない。正体のわからない不都合を伝染されちゃたまらないから。僕はこういう時、「君には君の宇宙があるんだね」と言って話を閉じるのを常としている。隣の宇宙の事情に首を突っ込んでなんかいられないからだ。その日の帰り道に僕は考えてみた。売り物の花は幸福なのだろうか?よくよく思い返してみれば、周りの友人も年々彼と似たような生き方をするようになってきたような気がしないでもない。野花のような生き方をしないのは何故なのだろう?僕は僕の生き方にそれなりに満足している。だから今の生き方ではなかった可能性については検討しなくていいと思っている。人生には余分なものもいくらかあるけど、エビフライにだって尻尾はある。

 

 僕には料理人の彼女がいる。周りの友人と比較、類推すると僕は女の子にモテるらしい。けれども、僕の関心事はその女の子の手料理が美味しいかそうでないかということだけだ。だから当然、彼女は今まで出会った子の中で一番手料理が美味しい。僕と彼女の間ではその条件がかえって絆になっていると僕は思っている。けれども、会社の先輩とそんな話をすると「フェミニズムの風上にも置けない」と言われる。そういう時、何だって他の誰かのイズムを押し付けられなきゃならないのだろうと僕は思う。けれどもそれを言ってイズムをぶつけ合うことは僕にとっては厄介な事態だ。だから僕は黙っている。黙っていると先輩はひたすら喋り続ける。僕の方ではフェミニストの言っていることはよく分からない。喋り終えると先輩は満足する。先輩のやり方も人生を満足させる生き方のひとつなんだなと、僕は発見をする。先輩の生き方が幸せなのか僕には分からないけれど、分かりたいとも思わない。正体のわからないイズムを伝染されちゃたまらないから。「先輩には先輩の宇宙があるんですね」と言って僕は話を閉じる。先輩は僕の言葉には露ほども関心を払わない。

 仕事から帰ると、ほとんど彼女とは食べ物の話と仕事の話しかしない。僕の関心はそれだけだし、彼女の人生もそれだけなのだからそれでいいと僕は思っている。最近彼女はやたらと数年後の未来の話をする。彼女は未来のことを思い悩んでいるらしい。僕は未来なんて誰にも分からないんだし気にしなくて大丈夫だよ、と彼女を慰める。彼女は生返事をするだけで、上の空のままでいる。彼女はいま、未来について考えているんだなと僕は可哀そうに思って、僕も倣って未来について考える。でも未来のテーブルに並べられた料理を頬張ったところで味がしないから僕は考えるのをやめた。重要なのは目の前のテーブルであって、不在のテーブルではないはずだ。まだ目の前のテーブルを舐めてみる方が有意義に思われる。僕は「テーブルについて考えるのはやめよう」と彼女に伝えた。彼女は一瞬不思議な顔をしたが、すぐに気を取り直して「何か作ろうか」と言って台所に立った。僕と彼女を繋ぐ絆は舌だけだ。彼女がまな板に向かう後ろ姿を、僕は愛している。

 

 金曜日の夜、件の売り物の花に誘われて、彼の職場近くのアーケード街へ出向いた。彼はライブハウスで働いている。客引きを手で払って、彼の行きつけの暖簾をくぐった。大衆酒場の大雑把な味付けも、あれはあれで僕は好きだ。僕の方はゆっくり味わって酒を飲むけれど、彼の方ではペースが早い。酔いが回ってきた頃合いになると、彼は「壺中天の話を知っているか」と話題を振った。僕は知らないと答えた。

「中国の薬売りの老人がな、店仕舞いをすると自分の店の壺の中に帰っていくのを費長房という男が見てたんだ。明くる日、費長房は薬売りの老人をとっ捕まえて俺も壺に入れてくれって頼み込んだ。そんで、いざ費長房が壺の中に入ってみたら、あら不思議。壺の中には建物が立ち並ぶ別天地があって費長房はご馳走をたらふく食べたんだとさ。お前にもお前の宇宙があるんだろう?どんな宇宙なのか聞かせてくれよ」

 彼の質問の意図は良く分からなかったが、僕は先日の彼に倣って熱弁をした。

「僕の宇宙は壺の中にはないけれど、確かに僕には僕の宇宙があると信じている。そして僕はこの宇宙でたったひとりだ。僕だけじゃない。みんなそれぞれの宇宙でたったひとりなんだから、僕がこの宇宙でひとりであったとしても、決してそれは寂しいことじゃない。君は売り物の花は孤独だと言うけれど、売られた花を誰かが買って行くのなら売り買いの絆はあるんじゃないかと僕は思う。それから、親と友達を騙していると言うけれど、信頼があるから騙せるんであって、そうしたら絆はあるだろう。大人になっても臍の緒で繋がってる訳には行かないさ。薬売りには薬売りの素敵な宇宙があるんだろうけれど、僕は僕の宇宙に住む宇宙人だから、よその宇宙法則が当てはまる訳がないんだ。だから僕は金を稼いで美味いものをたらふく食べる」

 僕が話し終えると売り物の花はえらく満足そうだった。「なるほど、お前は宇宙人だよ」と鼻を鳴らして笑った。それから僕たちは美味い料理屋がどこにあるとか、巷じゃ何々が流行っているがあれは食べ歩くには油っこ過ぎて敵わないといった実りのある話をした。

暗黒は斯く独り言ちた

 逆恨みをしたダニが腕や脚を這うようで、ダニ殺しのパッドを寝具に忍ばせた。虫の好みそうな、風変わりな、不快な甘い匂いがする。俺は足首に包帯を巻いた。それから、病室で他人の幸せを願った。左手には愛と憎でできたカフェオレ。君に付き纏う虫を火に焼べて燃やした。ついでに、隣の芝生も燃やすべきだ。気が付けば、俺もひとの心を持った虫だった。俺は否応なく根暗で、底抜けさ、朗らかさ、豊かさ、そういうものが愈々似合わない顔の造形だ。他者を嫌悪してはいるが、翻って自分も好きになれたものじゃない。根っから産まれ持ったタチならば上手く付き合っていかねばならない。ただし、純血が泣き言を言うものじゃない。

 楽しいという感情は貴重なものだ。人生のコツは掴んだか?遊びなんぞ幾らでもある訳だし、遊んで辛いことは忘れればいい。ところで、誰と。俺と遊んでくれるひとはどっかに消えちまったが。俺は悪いことをしていない筈だが、友愛の関係が破綻したのは善とか悪とかでは何も測れないからだ。なぜなら善悪は数値ではない訳だし。測るなら分度器とメジャーだな。つまり、数字と工業製品によって替えの利く製品が客観性の代名詞となる時代である。そんな時代には犯行声明を出してやる。女に頼ることが善いか悪いかは分からないが、善悪のことを考えたくもない。俺にとって思考は邪魔な岩石だ。待ち焦がれても眠りがやってくる訳ではない。その癖眠りを恐れている。夜の帳に唆されてループに陥るのが恐いのだ。独りで眠れば恋人は言葉になる。恋をしなければいいだけなのだが。

 何の為に生きて死ぬ。何が楽しくてそれを問う。思惟の肴がそれだけなのは単に貧しい。幸福や愉悦や快楽を考えよう。それから素敵なデートコースを考えよう。一緒に居て楽しいひとと居て、人生を楽しむ方法を見つけよう。旨い肉を食べたり、スポーツをしたり、お笑いを見たり、ゲームをしたりして、俺は俺を許そうと努力している。許せる中での座興に勤しむのだ。全身を隈なく使う。身体を余すことなく使い切らないと不足感に苛まれる。Doの意味は、身体を使い切ることだから。肉体の包含する時間と空間を使い果たして、最後は消滅しなければならない。消滅、またそうやって死だ。気を抜けば、同じ場所に戻ってくるのが思考という不気味な奴さ。不気味な森の中で、時間と空間は同時に無限で同時に一瞬の恣意性の二重状態。つまり、それは無だ。それなら、重要なのは無よりもDo、行動することだ。言葉遊びに勤しんで、行動のできない俺を誤魔化している。エロスを、生の伎倆を最大化することが必要なのではないか?それが俺にとっての救いになるのではないか、と推し量る。予定調和を攪乱する。行動の為の行動を取る。クリエイションもデストラクションも別に変わらない。

 飲み込んだ言葉は石になって腹の底に溜まる。愈々死んでしまいそうな──何が辛いか、膨れ上がった風船のように心が持たないようである。人のものばかり欲しくなって、不在のひとばかり会いたくなって、無いもののことだけ延々考えて、目の前にある本当のものを見えなくなっている。結局それでは欲しいものが分からない。何か、本当には無いものが欲しいのだな。だとしても、まずは頭を撫でて欲しい。それか代わりに綺麗な黒髪を撫でさせて欲しい。原始的に言って物はまやかしなのである。霧のない世界は、肉体の交感。君と触れ合うこと。君に愛されていること。君を愛していること。君がまだ生きていること。治癒と解毒。恋の病の病気療養。月のように欠如した俺の心の形。心を抉ったのは隕石。誰かの口から出る言葉。

 頭の可笑しな人間同士が惹かれ合って性交をするならば真っ当な人間を巻き込むべきじゃない。特に犯罪者は己の罪を叫んで自害したらどうだ?──そうやって死の妄想ばかりして何になると言うのか?何にもならないな。人間の男の最終目標は女を犯すことだから、企みが成功するかどうかで善悪を判断したらどうだ?お前が美だの何だの語っても仕方ないだろう。俺がお前を善悪で判断する責務は弁証法的後退によって忘れ去る。アンチテーゼの為にはそうするしかない。人の形をした肉人形が吐く言葉は全部録音だ。人形には魂が入っていないのだから悩むのは止して壊すかどうか物質だけを問題にしよう。俗世に悩まされている内は、観念に耽ること、自然の閑雅、明るい生活、面白可笑しいことについて考えることがどうにもできなくなっている。果たして俺が望んだのはこんなリアリティーショーなのか?俺が大事に育んできた感性や詩性が不能になることは道義に背く。当然俺は貝殻に閉じ籠ることにした。

 忘却と思考停止の才能。イングソックの基本原理。帰るべき場所や頼るべき精神的支柱が俺にはない。都会に生まれ育った若者はそもそも故郷がどこにもないという感受性を備えている。理想など形のないものだから、俺は他人の精神を粉々に粉砕してから、肯定と支配により都合のいい従順な奴隷を作りたがっている。思考を声に出してみよう。声に出せば自分を呪う。声に出せば歴史になる。声に出せば行動が始まる。行動をすれば悩みは消える。純粋な行動は放たれた銃弾のように曲がることがない。もしも、迷いや苦しみがあるのなら行動原理を疑っている。行動を開始したのなら、行動原理は自我の外部存在である。精神は迷う為に在ることを止め、己の行動それ自体に隷従する。人間性とは必要な場合に必要な部分だけを曳き出すが、使い終わったら綺麗に元通り仕舞い込むものだ。人間性が機能であることを承知する。だが、何故俺は俺の人間性を否定したがるのか?それは俺が人間だからか?我が、思う限りに在るのならば、その存在を否定することは叶わない。蜘蛛の巣に絡まった羽虫は足掻くほど余計に身動きが取れなくなる。──そう言えば俺は虫だった。首を真綿で縛られるようなコギトの呪縛。筆を折った瞬間に思考が完了する。思索の底を探る他にやるべきことはないのか?

 想像力の問題。知識を利用するという時に、新たな発見を探る為にそれが使われるのならばいかに豊かであるか。発見の手法、及び観察の手法。物語知覚。それは第六感。テキストに拠るところでは耳か目の駄洒落、音であるか形象であるか。物語は語るという能動性の中にあって受動的なものではないように思われる。観察、そして妄想。見る、そして見ない。現実はたった一つの普遍的事実ではない。そもそも現実は存在していない。価値観を共有できなければ関係を継続するのも難儀だ。まずは思考を開く。割れた海のように。ロジックを放棄した先にある不可解なもの。それはただ一つ、不可解であるという所感を頼りに探索する迷宮。果たして出口はあるのか?しかし、迷宮を知覚可能な物語で絡め捕ってしまうことは避けなければならない。何故ならばこれは神話ではない。本質とはそれ自体であり、決して見つけ出すものではない。

 二百年後に残る会話をしよう。人生の意味は幸福を目指すことではあろうが、人によってはそんなことが、正当な理解が、正当さそのものが、何の意味も持たないように感じられる。人生は死化粧である。エロスとタナトスは一対のスピンとなって、生は死の為に、死は生の為に互いに互いを補完し合っている。始まり、という概念はここでは無意味である。何故若者が死への衝動を植え付けられ、懊悩しているのか。結局のところ、そこでは至極当然な何か、それも自然発生的な仕組みが働いているように思われる。それを思春期と呼んでもよいだろう。知恵の輪を知らないひともいるのだ。曲がりくねって嵌っただけの金属が知恵の名を冠するのも可笑しな話だ。何かものを知らないということでひとを馬鹿にせずにいようと、俺は心に決めている。色んなひとがいる。

 然して、夕焼けの刻むこの一回性の連続は、どうしようもなく氷が融けたような時間を演出する。少し優しくなれたのならば、少し大人になれたということではないか。奇跡的な出来事はこの世にはなく、毎度毎度、何らかの妥当な理由がある。きっとあの娘は気を遣ってくれたのだろう。それならば最初から遣っておけばいいとは思うものの、それでは氷が融けたような、或いは知恵の輪が解けたようなカタルシスはないのだろう。愛があっても曲がっているものだし、曲がった愛は中々愛には見えない。人と人との距離は難しい。真っ直ぐな言葉でものを言わなければ、真っ直ぐな思いまでは伝わらない。そうまでしても、言い条は誤解される。目の色と声色とで多くが伝わっていると思い込むけれども、そんなのは思い込みも甚だしい。人間に言わせれば、光と闇とは乖離している。紅茶を飲み干して、暗黒は斯く独り言ちた。