考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

魔法使いの君

 月夜の受け皿であるこの部屋に月光は有機的なカーブを描いて注がれる。秒針が響く灰色の部屋だが、この冴えない時間に於いては誰も知らない廃墟に放り出されたようでいて心地が良い。孤独を歓楽しているのだから受け取った手紙は荷物棚に置いて行く。自然法則の調律的な美からは格落ちの、不愉快な騒音をどのようにして消し去れば良いのだろうか。何も生み出さず何も消費しない生活というのが到底許されるかは知らないが、静謐以外の全てとの関係に対して拒絶を望んでいる。風と葉の鬩ぎ合いに耳を欹てて思考をしている──それは自動的に。そうして時間が過ぎ去るのを待っていた。時間とは本質的にその訪れを知覚することはなく、目の前から遠ざかって薄らいで行く姿を朧げに追憶することしかできないものである。

 他者の闇を受け入れることなど不可能だ。人の器はそれ程大きくない。人には一人分の容積しか持ち得ない。お前の恋人になりたい訳でもなく、ましてや特別な何かを望んでいる訳でもない。俺が知りたいのは、お前の一番醜い部分。細部。行動原理、趣味嗜好、癖、信条を理解する為に、お前が隠しておきたいその部分を隅から隅まで知らなければならない。そうして満足したら、お前の実像の方を綺麗に忘れる。俺の空洞を満たすのは、孤独の家家が林立するこの地上で、俺が独りではないのだという安心と諦め。優しくて気高くて空虚なお前が醜くて惨めなほど、俺の心は綿毛のように軽やかだ。だから、どうか、醜く在って、誰にも打ち明けられない矛盾に苦しんでくれ。それが明日の生きる糧になる。

 

 服に付いた煙草の匂いはどうしてこんなに心を落ち着かせるか。救済はこの世の何処にもなく幾つかの慰めの手法が存在するに過ぎない。幾つかの──木の軋みも響かない静かな寝床、隣人の体温、白く炫る庭、猫や蜥蜴、服に付いた煙草の匂い──宴は遠き過去のようだ。酔いが時間を早回しにするのか。或いはそんな現実など唯の空想だったか。余りにも、角のない食卓や並んだリモコンや薄汚れたコーヒーポットが、そこに存在している。些細な事物に気を取られてみても、俺の器用な五本指が持ち上げてやらなければ一人で動くことはない。それに倣って椅子に静止してみても何も起きずに時計の針だけが進む。そうこうする内に同居人が室内の空気を掻き回し始め、僅かに体温が伝染していた空気が俺の足首に別れを告げてまた冷たくなる。此処でさえ俺は所在を失くしてしまう。

 俺は一つだけ魔法を知っている。世界を変える魔法。嘘を本当に変えるという決心をする。それからとっておきの嘘をつく。それだけで世界は思い通りさ。ところがそんな目論見も甲斐なく、世界は放って置いても完璧なんだな。だから俺も君も何も作れない。真の創造があるとすれば完璧なものを破壊することだけだ。そうして空間と素材を作るのだ。詰まらない思考は放棄して、他の事でも考えよう。お腹が空いたとか、そう云う大事な事を。

 ──否、違う。そんなことを言わせたいんじゃない。唇も喉も固く閉じたら言葉は迷宮に口籠る。掛けたい言葉が口の中でスパゲティのように絡まってしまう。どれが頭でどれが尻尾?どうして僕らは僕らの思う通りには生きられないのだろう。現実は向こうから最短距離でやって来て、その姿も軌道も見えるのに、足の裏が地面にくっついて避けられず、俺は現実と正面衝突する。それはまるで引き合う水滴のように。引力は肉体の第一原理である。キスマークは地図を描く。海に沈むアトランティスの地図。

 一生分の言葉というものがあるとして、それを全部吐き出してしまったら、もう何も喋れなくなってしまう。だから人は居眠りで時間稼ぎをする。魔法を使い切った魔法使いのように、お終いにはファストフード店で労働をしなきゃならない。ロマンスも消耗品なんだぜ。愈愈諦めてポケットから取り出した虫取り網を振り回す。穴空きだから雲を掴めない。穴が大きいから美を掴めない。ひと振りする度に虫ばかり捕まる。虫は苦手なんだ。家に逃げ帰って布団を被るが、頭の中にドンドン湧いてきて歪な声で何かを喚いている。何を……何を言いたいんだお前。何故こんなにも思い通りになってくれない。

 

 驟雨に濡れて歩く女の俯きを眺めていた。女は消え去った。そしてまた現れた。──君は何故孤独なのか。それは君の魂が蒸留水よりも清いからだ。穢れの前に深く傷ついているから、君はいつだって美しい。まるで少女の涙のように。君は俺の傷を癒すと同時に、いやそれ以上に俺を深く傷つける。だとしても、それでもいいのだ。雨に濡れている君に傘を差したいと、ただそれだけを望んだのだ。だけれども、結局君が何を考えて何を語っているのかさえ俺には幾分も理解できなかった。ただ一言、運命などないさと慰めればよいのだと分かってはいても、俺にはその一言だけがどうしても許せなかった。

 何度も君にキスをする。確かめる。愛が在る。まだ在るか確かめる。愛が在る。何度も確かめる。愛が在る。何度も、何度も。まだ息が在る。素晴らしい確証だ。君には決して分からないような複雑な機械の話をしよう。君は何も知らない。だから、ありがとう。無くなって困るものは初めから手に入れない。僻地でも手に入る、代わりの利く道具。紙とペン。それが俺の全てだ。それから最後に、永遠に離れ離れになる君に歌を贈ろう。君が魔法使いを辞めて人間に戻ったその時は、遠い土地の誰かに思いを馳せて欲しいと日々願っている。