考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

SNSについて思うこと

 今の時代に個人ブログというものを何処かの誰かが読んでいるのでしょうか。有名人やら芸能人ならいざ知らず、ネット越しの何処の誰とも分からない凡人の、浅学な個人的な美学についてのブログを見る人のことを好事家と言うんでしょうね。私に熱心なネットストーカーという有難い存在がいるかどうかは分かりませんけれど、これは後世に向けた書き置きです。

 SNSという名前の輩は目を開いているだけで文章が自分から挨拶回りにやってくるようなのですが、貴様のように厚かましい文章が在って堪るかと、私は思う。広告というものは土台そういうものなのでしょうけれども、低俗。美しい文章とは、ひどく晴れた高原で、或いは土砂降りの雨の中で、身動ぎひとつせずに静かに佇む者。何百何千の怠惰な人々に監視された取調室で陳述する文章というのでは、自己検閲の嵐を潜り抜けた骸骨船。長い航海で船の形状を保っているかさえ疑わしい。誰にも見られず、他人にとやかく言われずに残された文章こそが本当の文章であって偽物の文章は箸休め程度の広告声明文である。

 好感度が数値化されるSNSに載せられた文章には、私はどうも魅力を感じない。一方で、2ちゃんねるの廃れたスレッドの何気ない文章に見る魅力は何なのでしょう。魅力を感じ得ない文章というのは、発見する文章ではなく押し付けられる文章である。校長先生の長いだけの洗練され得ないスピーチ、あれは結局何の儀式だったのでしょう。日記帳に書いて満足すれば良いようなことを誰かに押し付けている。言論の自由憲法で保障されているから勿論好きにすれば良いけれども。私は化石彫りのように発見される文章が好きだから、いつか発見されるであろう文章をこれからも書き続ける。そういった継続の中で筆力を高めていこうという思いです。