考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

ある町の話

 躊躇しながら敷居を跨ぐと、そこは他人の家だった。奥ゆかしく散らかった古い長屋である。住人と見られる幼女と目が合い、一瞬迷って丁寧に挨拶をした。

 壁に書かれた書き置きに従って靴を脱いで、裸足で家の奥へと進む。そこには大戦以前から残る彫刻が町に調和しつつも佇んでいた。

 私が彫刻を見ていると、幼女が彫刻の中に入って遊び始めた。すると幼女も彫刻の一部だったのだ。幼女は何かを言いたげに私を見つめていたが、私は居づらくなってその場を去った。私は幼女に何をすればよかったのだろうか。

 

 私は古文書を手にしていた。そこにある地図を頼りに雨の中、ある珈琲屋を探していた。

 探していたというのも、何処の珈琲屋でもいい訳ではなく、古文書に記された書き置きに従って行かなければならない一つだけの珈琲屋だった。

 そしてその珈琲屋は閉店していた。私は目的地を失い狼狽えた。

 

 五分後、私は珈琲を飲んでいた。村長は私に代案を提示し、私はそれに承諾した。つまりそこは書き置きに記された一つだけの珈琲屋ではない、只の珈琲屋だった。

 趣味のいい素朴な陶器を揃える小さな珈琲屋だった。考えに耽りながら居座っていたから、私の後から入ってきた女性が店主に「実は」と深刻そうに切り出す話に聞き耳を立てなくとも、背中越しに聞かざるを得なかった。

 異邦者が聞いていい話ではないかも知れないが、私にはどうにもできないことだ。彼女は語り始める。

 実は、町のイトーヨーカドー無印良品が入るという話だった。するとカウンターに座っていた先客が、我こそは無印良品の店長なのだと告白し始めた。

 そんなコントのような話がある訳がないから、きっとこれは町ごと仕組まれた演劇だと、私は真実に辿り着いた。すると私の手にするこの古文書は、村長の書いたフィクションだったのだ。私はもう退屈だった。

 

 白けた私は店を出て、雨に濡れてしまった古文書を丸めて路肩に投げて捨てた。私は一刻も早く、雨雲の立ち込めるこの町から出たかった。

 小さな駅舎から乗る電車は、仕事終わり学校終わりの乗客で込み合いひどく湿気っていて、今時珍しく電車の灯りは蛍光灯よりも光量の劣る白熱灯だった。会話が聞こえてくることもなく、仄暗く照らされる乗客の顔は、大人も子供も虚ろだった。

 

 私がこの町に来ることはもう二度とないだろう。