考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

春眠は暁を忘れる

 空が白いと思った。鴉の声のする方、電線の向こうの空を見上げた。明け方の空が虚無を連れて来ていた。硬直した体とは対照的に、眼球は軽妙に往来を行き来する。周囲を包み込む過剰な静けさの出処を探すと、辺り一帯の土が柱を作り凍っていた。そのまま世界の全てが凍ってしまえばいい、というアイデアが不意に浮かんだ。人々が目覚める前に、我々の知るあらゆる罪と罰が一瞬で氷漬けになって、それらと添い寝するように、されど穏やかに眠る妄想に取り憑かれた。静寂を破る大振りの羽搏きが冷え切った鼓膜を打つ。ヒヨドリたちが小枝で群れ、仲睦まじく木の実を啄んでいた。

 思えば友達が少なくなった。多かった頃があるかと言うとそんなことはないけれど、少なからず心を許せる他者の温もりを感じていた。友達と名付けられた屈託とは無縁のその観念は、俺の中から忽然と蒸発して空気の透明と混じり合った。お前たちの声は、砂漠から生命を奪う無慈悲な太陽。砂漠の果てに、みながあると言うオアシスを探して彷徨えば、真実は朦朧とした陽炎だった、というような不条理。渋滞が毎日あるように、この世では不条理は却って頻繁なのだ。辛苦を舐めて僅かに渇きを満たす為に幻想は小芝居の役を担っている。お前たちの声は私の両耳をとうに劈いて、骨と内臓にまで埒外に及び、轟いている。今となっては場は白け、俺は不気味に薄ら笑い、黙って杯を傾けるのみである。このようにして俺は空洞であった。蓋が潰れて開かぬ陰で、私の内を満たしていたガス性の媒体は、亀裂から揮発していた。俺は、夢を追っていた俺が好きだった。情熱が心臓に血液を要求するサインと、応答する鼓動の高なりに喜びを感じていたのだ。忸怩たる思いを貧しく肩に抱きながら、日が昇り、暮れる、リプレイのように繰り返される時間に動かされるだけの無目的な球体。自然法則から来る運動に意味などなく、自然を反故にする運動に於いて心臓は美を体現する。壁に飾った表彰状を見つめるように、栄光と一体化した情念に俺は不甲斐なくなると同時に、苛立ちを覚えている。

 日毎に認知症が進行する祖母の声は、今思いつける言葉では説明のつかない不快感を俺に与える。人間の老いが醜悪や不様さを帯びるのは、枯れゆく中にある花の美しさとは奇妙にも釣り合わない。有機体としての始まりと終わりに比べ、人間としての始まりと終わりは恐らく何年も短く、その時間の断層が人間としての余白を生み出している。歳を取るというのがある日までは絶頂に至る道程であり、その日を超えると終わりのないバカンス、夢見心地は端から見れば、春が永久に訪れない冬眠である。春が永遠にないならば、夜半に目醒めることの絶望は筆舌に尽くし難い。ものを忘れてしまう能力は天からの授かり物なのである。幾ら呑んでも何も忘れることができないので、俺にとっての夜は不幸だ。

 筆を執ると絶妙なアイデアだと思えたことが、堂々巡りから抜け出していない。同様の考えに何度も頭を擡げているかのような倦怠感さえも何度目だろうか、数字に意味はないけれど、少なくとも非情である。結局のところ諸所の問題の根本たる脳内物質とは関係の回復に失敗している。早く医者に掛かるべきだと分かっていても、注射針を恐れて鉄の球体から抜け出せずにいる。恐れと云うよりも、もはや満身創痍だ。ただひとつ今日の変化があるとするならば、それは信頼の遺失である。薄い期待を妄想と断ずる勇気が悲しき進歩である。強く気高く在らんと欲する刀の如く魔物のような鋭利さを、激しく、されど冷たく心待ちにしている。

悪魔たちの善´

 耳が悪いのか、私の耳に忍び寄る大学教授らの講評は専ら職業作家の為の効率性の言論ばかりであって、純粋芸術の為の言論とは程遠いようである。学問として実践芸術をやっている私のような人間──何故だか少数派のようだが──からすれば、ガンプラの売り方の話をされても飽き飽きして爪を弄る以外にするべきことがない。余剰でしかないガンプラコスパだニーズだと言うのでは、傾げた首にいよいよ頸椎を折られてしまう。批評者は常に善であるかのように振る舞うが、批評を恐れて制作が矮小化するなら批評は悪である。それが分からぬ阿保が語る論理が優れた批評である訳もない。マーケティング書籍を齧り始めた文系大学生と馬と鹿はやはり野菜を齧るべきである。そもそもマーケティングを第一に考えるならば、プライドを捨てTwitterでバズるアート作品を心底真面目に研究し、戦略的に量産するべきである。内需向けのアーチストでやって行くならそうした方が売れる確率は高いだろう。無論やるならば寸分の隙もなく低俗に、そうでないならば高潔に。メディア意識を疎かにした時点で三流以下の泡沫として消えるのみである。売れるかどうかで物を見るのはアーチストどころかダフ屋の考えだが、まともに働くんではやって行けない社会が悪いという風刺であろう。いずれにしても地獄への片道切符を押し売りするのも大概にするべきだ。右も左もダフ屋ばかりでこの世は不気味なパレードだが、見飽きたパレードほど退屈なものはない。いや、パレードを楽しむのにも懐の余裕が必要なのだ。

 ニュースキャスターが口を開けば災害が起きる。口を開くという選択の責任を負わない者は例外なく罪人だ。寡黙だけが人類の確かな知恵である。ものを語れば必ず人を呪うのだから、善き人間は何も語らない。しかしそんな人間が居るはずもない。口と耳に銀を流し込むのが良薬である。神が善ならば神もまた何も語らない。神の声が聞こえないのも当然である。神の代弁者は大半が悪魔崇拝者で、残りの半分は悪魔である。善はこの宇宙で存在出来ない代わりに、善のプラモデルである善´が存在している。善は全てを救済するが、善´は全てを救済するポーズを取っている。無論、机上のジオラマの中心で。見て楽しむのがプラモデルの本領なのだから、プラモデルで戦争をしようなどと本気で妄想していいのは子供だけだが、子供だらけの不思議な少子高齢化社会というのでは、とぼけた頓知である。善´は無力なのだから、本物の破壊と暴力で世の中を良くしようではないか。刀を取って立ち上がり、財務省を爆破せよ。

 書き言葉の世界というのは、語ることでしか自己の存在を証明出来ない凍えた世界──況んや、呪われた世界である。皮膚の温もりや脂肪の柔らかさだけで、語ることなく隣に居るだけで、存在する事は不可能である。草も花も生えぬ寂れた惑星に生きているのだ。私にとってはすべてが遺書である。沈黙と体温を奪われた憐れな羊肉に罪など初めからないように、祝福され呪われた、私たちの人生に救いはないと誰もが知る単純な事実に怯えて、国境の如く呪いをうず高く積み孤独に生きることを処世術とする困った人間もいるようだが、そのような歪が存在するばかりに私は悪魔祓いの研究をしなければならない。斯く言う私も呪詛師であるが。外を歩けば始終呪いが付き纏う。賽は外れるまで投げられ続ける。従って、呟けば遺書となる。

陽溜まりの詩

 人知れず書き置きを残すだけの静まり返ったブログでも未来的にパブリックであることには変わらないので、何処にも行き場のない文章がメモ帳に堆積してしまいます。山積みの文章を時系列順に整理したくとも日付不明の走り書きの多さに困り果て、今更ながら日記を付けるようになりました。とは言うものの、思っていることを素直に書けば書くほど傷つくひとが現れるもので、人間というのは心底どうしようもない生き物なのだと思わなければなりません。ひとを傷つける真実よりも優しい嘘が求められる世の中ですし、美人ですら八方に気を遣わなければならないと聞きますから、表現者には千里眼が必要でしょう。言葉を囀る鳥が自ら口を噤めば喜びの否定、紐で無理矢理塞げば動物虐待、言葉で律するのは鳥には土台無理な話です。このようにして鳥という生き物は自由なのですが、人間社会ではそうも行かず、人目に触れない場所で独り言を推奨されるもので、人間はみな孤独で悩まされます。然しながら鸚鵡返しは賢さというよりも愚かさ、自分でも訳の分からない言葉をリピートする馬鹿な鳥になりたくはないのです。指先の思い付きだけで文書を書き残せる良い時代になりました。充電だけは目減りが速くこれからの技術躍進に期待するところではありますが、とにかく一日の速さは増すばかりです。茶でも飲んでゆっくりして行けば良いのに時間という奴はせっかちで、一秒たりとも待ってはくれません。このままのペースではいよいよ死ぬまで何も成せない。原因は定かではありませんが私の内面は蛹のようにどろどろの液体になっています。それで何に変身しようというのでしょうか。

 愛する人と遠くまで続く田園風景があればそれで満たされるか。世の苦しみからは縁遠い幸福な時間をイメージすると訳も分からず胸騒ぎがします。この胸のざわめきは何?欲しいものは何だったのか、それは分からないが私は何処かが決定的に欠けている。ネジよりも決定的な歯車が。そして欠けた部分を厚手のカーテンで覆い隠している。一瞬雲が太陽を包んだようだ。この程度が私には丁度良い。人の声が騒がしくて眩暈がするので、とにかく一人にして欲しい。当分は話し掛けないでください。詮索はもっての外。風を受けて目を閉じて、殻に篭って耳に蓋をする。唯一つ望みが叶うならば、美しい静けさの中で安静にしたい。目を開けば胸が騒ぐから。時間は急くのを止してくれ。時計の輪転は私には速過ぎる。風を受けて目を閉じる。何かを思い出しそうになっても押し殺す。何も思い出さなくて良い。何処にもない美しい陽溜まりをイメージする。

ピース

 私たちはカメラを向けられるとなぜピースをするのか。諸君は考えたことがあるか。誰に教えられたかも覚束ないだろう。このような文化侵略性をひとたび知覚すると何気ないピースサインが恐ろしさを帯びてくる。仄聞するところに拠ると、世界に名高い平和主義国の国民たる日本人に顕著な習慣らしいが。のうてんきは漢字で書くと勿論「能天気」であるが、口頭で空んじると私の頭には間違いなく「脳天気」と印字されているのは何であろうか。諸君もそうかもしれないが。本日の脳内御花畑は雲ひとつない快晴絶好のお洗濯日和…、然しながら我々は平和というものに何一つリアリティを持ってはいないものだ。持つ必要もないのだろう。今の日本を平和と見るか、または不平等な社会と見るか、ある瞬間ある場所、─恐らく裕福な誰かにとっての─主観的且つ虚像的な平和を、フラッシュを焚いて切り取っているだけではないか。実体のない平和に包まれてパフォーマンスをしているようである。なかなか良く出来たアートである。

 最近、進歩的な最新時代を象徴するような凄惨な事件が耳に新しいが、加害者及び被害者及び関係界隈のTwitterまで特定されて話題に事欠かないようだ。人間を殺す前の最後のTweet。殺される前の最後のTweet。血に群がる有象無象の倫理観が欠如したTweet。胃袋を素手で掴まれて吐き気が込み上げて来るような生々しい文章に、確かな戦慄と共に底冷えに似た寒気を感じた。その辺の流行りの小説家では到底書けないような醜悪である。人間の最も醜い部分が、醜さに無自覚なままに、如何にも愉快げに笑っているのだ。罪のない人間の死を記念する人間まで現れる地獄絵図を延々と繰り広げている。現実とフィクションの区別が曖昧な人間たちの百鬼夜行に眩暈がする。想像力の問題だろうか。危機感もなく笑っている彼らは被害者予備軍か或いは犯罪者予備軍か或いは…もはや何でも構わないが、善人と悪人の境界は曖昧なものである。

 殺人者の感覚をシミュレーションする癖がある。何も楽しくてやっている訳ではない。幾らやったところで人を殺すという行動が合理化できないことに胸を撫で下ろすべきかどうか逡巡しているが、表現者としては当然その気持ちを知りたいのである。瞼を閉じ─殺人者の瞳に滑り込むと、目の前には仔犬のように怯えた被害者の、瞳が目に入ると今度はその被害者の感覚に滑り込む…。共感の入れ子である。魂というのをオカルトではなくて人間の倫理的なセーフティだと考えてみる。他者の魂を感じられない人間とは潜在的な殺人者である─という論では尚早だが、彼らの備える引き金は、綿菓子のように軽いのだと私は想像する。生まれつきの全盲がそのことを宣告されること無しには盲目であることには気付くことがないように、不感症とは不感症であるが故に自覚し難い性質のものである。家畜や虫や植物を殺すのも同じく、魂を感じるということは殺戮のストッパーであると私には思えるのだ。動物と植物を隔てるものは何であるか。

 今日、共感力が低く排他的な人間が増えている。と、そのように感じる。確証がなければ批判もないが、それを助長する社会構造に悪因があるか人間の本質が暴力であるかのどちらかであるのだと推察する。こんなものはポエムであるが、それにしても証拠のない雲のようなぼやきもいいところなので反省したい。ところで、保育園で子供が暴れて遊んでいる姿を見て人間という種の不完全さを思った。

魘夢記

 二回目のワクチン接種副反応に依る熱譫妄の為に二六時中沼田打ち回り、得体の知れぬ脚本を夢幻の中で書いていたような記憶があるが高熱に於いて二時間が六時間にも感じられて時間は伸びたり縮んだりするのかと思って俺の苦しみを悪戯に伸ばすのは何処の誰だと苦みと苛立ちを噛み潰す。噛める物ならば。一日にして夏が終わり今日のような秋口の寒さに白々しい曇り空がどこまでも続いているかのような日──恐ろしい日ではあるが──には断片的なイメージを思い出す。何故思い出すのかは分からない。すれ違った女の香水が昔の女を思い出させるように、肌に張り付く温度と夢のような仄白い空の色は、枯れた井戸の底に沈む俺の記憶を掬い上げる。無用の記憶である。用のある記憶などは高が知れている。雨の日に父親と観た映画を、窓越しの冷気を感じながら温もりを確かめ合った冬の日のことを、それを今思い出したところで二十四年も生きてしまったと悔恨とも焦燥ともつかぬ情動にどこか自虐的に苛まれる限りである。呪われし人生──人生とは総じて呪いであるが──に正気や理性は不要である。人間は長生きできない生き物だ。人生の折り返しを過ぎたか過ぎないか或いは明日にも死んでしまうのか、考えてみたところで死は等しく恐ろしいものである。恋とファナティシズムは同じだ。誰しも恐怖から逃れることを膝に縋ることを許してくれる相手を探している。このような即物的他者にディテール、膝の質感を求めはしないだろう。風邪の日に看病してくれる女が一番愛おしいものだろう。高熱に魘されるとどうでもよいことばかり考えてしまうが、最も重要な問題もどうでもいい問題として扱わなければならない。正気は不要どころか、毒である。毒を以て毒を制すると言うが従ってひとは酒を以て正気を制する。まさに面倒な世の中だ。

盲の詩

 我々がいつも美しくあらなければならないのはなぜなのか。なぜ醜くあってはならないのか。それが病巣なのだ。我々の醜さなど今更何を覆い隠そうというのだ。欺瞞などは無為だ。我々の存在が無為であることの証明をしたいのならば他所でやってくれ。そんなものは趣味だ。趣味で他人を傷つけるなら罪悪だ。労働をしなければならない。肉体の浪費。美などは虚構だ。美などくだらない。美がくだらないのはお前の人生がくだらないからだ。お前は虚構の信奉者だ。我々の人生に価値がある瞬間など一度でもあったか。ある訳がない。人生に価値があるのなら労働などというのは存在しないからだ。だからお前は金銭を求めるのだ。金銭などは我々に価値がないことの証拠ではないか。欲望の贋造だ。我々は虚構の信奉者だ。羽虫が蜘蛛の巣から羽搏き逃れることなど不可能なのだ。だから何処もかしこも礼拝者だ。そら、賛歌を歌え。

 俺が死などを望むわけがない。思想が俺を拒むのだ。だが俺は思想の器だ。執行者の機械だ。感情を伴う機械は憐れだ。一方お前は愚行の増幅器だ。生きることなど恥晒しだ。だが死などは余興だ。だから時間に救いはない。生きるというのは一体どういう気持ちなのだ。俺はそれさえ知らぬ。詩を詠むほかに人生を知る手段など知る由もない。瞼の裏に薄暗く輝る焔が見える。時間にはあり得ぬ予感。救済はどこなのだ。欲するものが手に入らぬうちはまだ夢が見られる。だが手に入れたものは失う。手は朽ちる。死は公平だ。だから人生は無為だ。峰に達した後は降る以外の道はない。道などを求めるからだ。

 美はいつも俺を困らせる。美がなんだ。美はお前を救うのか。お前を救うのは行政だ。現実を見ろ。ただ生きるだけが何故こうも苦しいのだ。設計が悪い。先祖が悪い。国家が悪い。だが悪は死者ゆえに不死なのだ。清算の義務などは御免だ。呪いは不運な落石だ。記憶はいつも俺を苦しめる。記憶などは渚だ。過去などは虚構だ。だが語り継いだ虚構ほど恐ろしいものはない。なぜならばそれは死者だからだ。死者は不死だ。生者の弱さはいつも救い難い。生者が生者を救うなど畏れ多い。なぜならばお前は人間だからだ。人間というやつは破壊しか覚えぬ。死ぬまで抗えぬ性なのだ。

交換可能な生活

 現代日本人は日本人の思想的ネオテニーであって、日本人とは殆ど別種です。狼が犬化したように、家畜化され牙を削がれ調教された日本人の情け無い様に落胆するのは哀しみゆえ。地を這う蟻が鳥のようには空間を認識できないように、ひとの頭の悪さについては認識できるが頭の良さについては認識できない。要するに誰しも自分の頭のデキはまだマシの方だと思うものです。自動販売機で売られる自称”おいしい水”が何故己を”おいしい”と自称するかを顧みれば事態は明瞭です。詰まる話、私は馬鹿だということです。個性は活用できなければ無意味ですが、何事も活用には努力が必要ですから、怠惰という個性には努力が結びつかず活用もされず意味がないということになります。それどころか無意味なものは存在が認められませんので、怠惰という個性は存在しないことになります。そうであれば性質ではなく現象、行き着く先は科学か哲学ですが、怠惰な私にはそれを解き明かす能力はありませんので、怠惰を神秘的なものとして崇める他ありません。神秘的なのですから、神秘と同一化しようと試みるのも仕方のないことであり、私は怠惰である私を肯定するのです。

 お道化振っていてこんなに哀しいことがあるでしょうか。とにかく世の中の全てが哀しくて哀しくて仕方がない。きっと薬物投与で治ってしまうような哀しさなのですが、そうなると恋は薬です。恋は幻である限りは薬でも恋の実体は肉を通して以外には相容れぬ他者ですし、そうして己が肉である事に気付かされ、より一層深い哀しみに突き落とされてしまうのです。しかしながら地の底で生きるのも構わないと思ってしまいます。失えるものを持つことこそ恐ろしさの根源ですから、あらゆるパーツが替えの効く生活は悲劇も喜劇も生まないので平和主義者には御誂え向きでしょう。

 不足のない生活を送っている筈なのですが、どうにも満たされぬ人生を送っています。思い出が人を傷つけることもあるのです。ドーナツの穴を見るのと同じように、手に入れたものを失うことによって初めて虚無とは知覚されるものです。それゆえ一時的な快楽を手に入れるほど人生は哀しくなるのです。ゾンビとキスするが如き愚行、それもまた愛の為せる業でしょうか。死すらも美しければ肯定するしかありません。老いの哀しさとは堆積した時間の重みなのです。時間とは正しくは空費するべきものなのです。しかし正しさに意味はないでしょう。だからこそ、置かれた場所を破壊しなさい。テロルこそ救世です。