考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

悪魔たちの善´

 耳が悪いのか、私の耳に忍び寄る大学教授らの講評は専ら職業作家の為の効率性の言論ばかりであって、純粋芸術の為の言論とは程遠いようである。学問として実践芸術をやっている私のような人間──何故だか少数派のようだが──からすれば、ガンプラの売り方の話をされても飽き飽きして爪を弄る以外にするべきことがない。余剰でしかないガンプラコスパだニーズだと言うのでは、傾げた首にいよいよ頸椎を折られてしまう。批評者は常に善であるかのように振る舞うが、批評を恐れて制作が矮小化するなら批評は悪である。それが分からぬ阿保が語る論理が優れた批評である訳もない。マーケティング書籍を齧り始めた文系大学生と馬と鹿はやはり野菜を齧るべきである。そもそもマーケティングを第一に考えるならば、プライドを捨てTwitterでバズるアート作品を心底真面目に研究し、戦略的に量産するべきである。内需向けのアーチストでやって行くならそうした方が売れる確率は高いだろう。無論やるならば寸分の隙もなく低俗に、そうでないならば高潔に。メディア意識を疎かにした時点で三流以下の泡沫として消えるのみである。売れるかどうかで物を見るのはアーチストどころかダフ屋の考えだが、まともに働くんではやって行けない社会が悪いという風刺であろう。いずれにしても地獄への片道切符を押し売りするのも大概にするべきだ。右も左もダフ屋ばかりでこの世は不気味なパレードだが、見飽きたパレードほど退屈なものはない。いや、パレードを楽しむのにも懐の余裕が必要なのだ。

 ニュースキャスターが口を開けば災害が起きる。口を開くという選択の責任を負わない者は例外なく罪人だ。寡黙だけが人類の確かな知恵である。ものを語れば必ず人を呪うのだから、善き人間は何も語らない。しかしそんな人間が居るはずもない。口と耳に銀を流し込むのが良薬である。神が善ならば神もまた何も語らない。神の声が聞こえないのも当然である。神の代弁者は大半が悪魔崇拝者で、残りの半分は悪魔である。善はこの宇宙で存在出来ない代わりに、善のプラモデルである善´が存在している。善は全てを救済するが、善´は全てを救済するポーズを取っている。無論、机上のジオラマの中心で。見て楽しむのがプラモデルの本領なのだから、プラモデルで戦争をしようなどと本気で妄想していいのは子供だけだが、子供だらけの不思議な少子高齢化社会というのでは、とぼけた頓知である。善´は無力なのだから、本物の破壊と暴力で世の中を良くしようではないか。刀を取って立ち上がり、財務省を爆破せよ。

 書き言葉の世界というのは、語ることでしか自己の存在を証明出来ない凍えた世界──況んや、呪われた世界である。皮膚の温もりや脂肪の柔らかさだけで、語ることなく隣に居るだけで、存在する事は不可能である。草も花も生えぬ寂れた惑星に生きているのだ。私にとってはすべてが遺書である。沈黙と体温を奪われた憐れな羊肉に罪など初めからないように、祝福され呪われた、私たちの人生に救いはないと誰もが知る単純な事実に怯えて、国境の如く呪いをうず高く積み孤独に生きることを処世術とする困った人間もいるようだが、そのような歪が存在するばかりに私は悪魔祓いの研究をしなければならない。斯く言う私も呪詛師であるが。外を歩けば始終呪いが付き纏う。賽は外れるまで投げられ続ける。従って、呟けば遺書となる。