考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

熱放射

 上辺の友人を増やす術を覚えても、本質的な友人というのは小手先の小細工では増えない。マインドの問題ではなく、ある種の確率と双方の日々の鍛錬によって成就する。責任を転嫁するつもりはない、私のせいなのだ。私の精神は日々の鍛錬を怠っており、そもそも癒しを必要としている。必要とされる癒しとは他者との接触であり、そういう意味では上辺の友人を幾らか増やすのは合理的な手段である。しかしながら、そうやって合理性で物事を判断しようとしていると何かを見失っているような蟠りが残るが、そのことが分かっていたとしても精神が防壁を崩壊させる融点を超えてしまわないように正常な推移を維持する他はない。

 論理で自分を言い聞かせても効果がないのは分かっていることなのだ。問題を客観的に叙述したところで人間は本質的に感情的な生き物なのだから感情的な手段でしか問題は好転しない。解決の思考は即座に論理に陥るから思考というのは厄介だ。祇園祭は元来疫病を抑える儀式であって感情信仰であるが、感染対策でこれを中止してしまうと感情よりも科学の方を信仰してしまっているという事実を証明してしまうが、坊さんの沽券に関わる話である。あまりにも感情を軽視する傾向、それによって起きる実害は感染対策という旗印の前では口答えの権利すら与えられない。存在しないとさえ思われているのかもしれない。ここに彼の禁煙ファシズムと同じ論理を見出せる。

 命題。人間は論理で生き論理で死ぬか?答え。人間は感情で生き感情で死ぬ。感情の問題に対して論理で解決を図るのは筋違いで、つまり素直に人肌恋しいと言えという毎回の結論に収束してしまうのだが、言葉を書き殴るのも論理を積み上げる鍛錬ではなく感情の熱放射でしかない。あるいは考えることによって感じることを放棄しているのかもしれない。とにかく器用な小手先で人形をあと幾つか揃えるべきだろう。壊れた人形では遊ぶことはできない。