考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

譫言

 毒と云うのは大変危険なものですから、例え空に向けてでも、ひとこと毒を吐くと空気は忽ち腐るものであります。どうしても毒を吐くのが抑えられないのであれば、他人様に迷惑を掛けずに便所などで済ませるのが礼儀というものですが、そう云う手合いに限って人目の多い処で毒突くのが何やら性癖のようなのであります。

 イマドキの若者は百四十文字にパッケージされた文章世界でものを思考しているようだが、これも非常に危険である。綴りがバラバラになるということは前後不順の散文化への傾向があり、論理を組み上げたり結論を導き出す能力が衰える。外的な時間によって綴じられた媒体を放棄するために、文章の連なりに構造関係を感知できなくなる。小説をトランプに印刷して好きにシャッフルして読んでみたら精神分裂者の手記にしかならぬ。時間という次元を輪切りにするのはこのような危険を孕むから、たとえ時間潰しでも細切れの文章世界には長居しないことです。

 最近思いついたことなのですが、我が国には「酢いも甘いも」と言う言葉があり、これによって甘いの対義語は苦いにはならぬということを証明するのであります。従って、「甘酸っぱい青春」か「甘くて苦い青春」の何れかが嘘ということになるのですが、私には甘酸っぱいというのは嘘だと思われます。苺は瑞々しい赤色に騙されがちですが、酸っぱいだけで実は甘くないのです。オレンジは甘くて酸っぱいか知らん?でも私の知る限りの青春は、オレンジのような味ではなくて、黒い包装のキットカットのようにほろ苦いものでありました。だから青春とは甘くて苦いのです。でもこれは私の青春ですから、普通一般の味覚では甘いの反対は酸っぱいなのでしょうか。

 外の世界が明るいと、目を瞑りたくなります。自分まで明るくならなきゃいけないような気がしてしまって辛いのです。殆ど常に自己嫌悪に苛まれている人生ですから、暗澹な心を白日に晒される事程の苦痛はありません。何かしなくては。何もやる気が起きぬ。働きもせずに飯だけ食らって碌に勉強もせず娯楽や妄想に耽って、苦しい苦しいと腑抜けて何も生み出さぬ、塵。己で己を煽るのは愚かですが、そうやって正気を保っているのです。憐れ。薄闇が恋しい性分なのであります。

 死ぬのも苦しい。何故死ぬのが苦しいか分かるかと申しますと、夢で見るのです。今朝も線路に落っこちてしまって、線路脇のスペースに身を隠そうと思ったのですが、ウン百屯の鉄の塊がすぐ側を掠めると思うと恐ろしくて、電車がやってくる前に這い上がって難を逃れたのですが、余りに恐ろしさに夜中の四時に目覚めてしまい、ホームドアのない駅舎には行きたくないと震えていました。

 生きるのも苦しい。資本主義の問題は、金を持つ人間が無尽蔵に偉いことです。そもそも資本と労働は等価交換ですから労働者だって偉さは同じ筈です。しかしながら、金を払うから靴を舐めろは罷り通るが、靴を舐めるから金を払えは通りません。遜ってお願いしなければなりません。金の方が偉いのです。これは全くもって変だと私は思うのですが、資本家の方が偉いので私の意見は通りません。酷い世の中だと絶望する他ないのです。

 主義とは資本主義に限らないが、先ず主義があって其れから物質がある。街にしても、家にしても、店にしても主義がなければ存在し得ない。翻って、主義があれば例えば自衛隊のような論理矛盾でも存在する。そうすると詭弁もまた論理なのです。

 少々脱線して参りましたが、人生とはどう転んでも転んだ分だけ苦しいものです。さすれば苦しみを癒す他に道はなし。我が国には「良薬は口に苦し」という言葉があり、青春とは苦いものであるという結論が先ほど出たばかりです。今日の薬は改良されて子供でも飲みやすいように甘く味付けしてあるものですから、甘くて苦い青春は人生に良く効く薬であるということに他ならぬ。結論を申し上げますと、私は恋をしたゐ。愛し愛されたゐと云うことになるのです。