考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

花柄の話

 俺と云う一人称が好きではない。俺の「れ」が何だか命令形のような傲慢な響きがある。第一、女は使ってはならない一人称を現代社会では差別と呼ばずに何と呼ぶか。一人称に僕と言うのも好きではない。シモベと読ませる言葉を一人称にするのは気分が悪いし、目上の人間から強要される一人称であるからして暴力的且つ敗北的である。斯く言う理由で私は私を使っているが、女っぽい、カマ、粋がっている等と言われれば流石に敵わない。何故日本男児に於いてはこのように不便な一人称形態が罷り通っているのか甚だ疑問である。Iの一文字で済むものを、下級国民にはIの一文字では済ませんとする捻くれた精神性が垣間見える。

 言葉狩りは文化狩りであるから、一人称は明日から皆等しくIの一文字にせよという主張ではない。多様性は増やすものでも減らすものでもなく放っとくものだ。選択的に一人称を選ぶ事が許されていればそれで済む。然しながら日本男児社会に於いて下僕の僕と上司の俺という一人称形態は法律である。ハンコ文化並みの出しゃばり様式である。男女平等を叫ぶ気力はないが只々億劫である。その億劫を呪縛させたいという呪術性が日本人の根本に通底しているのであろうか。実際的には礼儀という言葉でラッピングされた呪術だけれども、客観的には綿々と来た伝統でもあるからその辺は大目に見ることにする。

 然し契約の存在しない私的言語空間に契約の論理を使い回すのは如何なものか。ここで初めて一人称のジェンダー論が立ち現れる。男の子なら俺、女の子なら私、そうしないなら「らしさ」を失うぞという脅しが教育に刷り込まれているが、それを鵜呑みにして公的空間ではない生活空間にまで流用するのは愚かである。僕っ娘上等、俺っ娘上等、私野郎上等である。らしさ教育から外れた振る舞いに後ろ指を立ててゲイだの何だの嫌味を言うのは馬鹿である。

 斯く云う理由で私は花柄の服や鞄を好んで身に付けるのである。