考えごと

散歩、ポエム、むらさき。

海亀のカップスープ

 単細胞生物の死の瞬間の映像を見たことがある。死と同時に肉体と外界との境界の殻が溶解して生命が世界と溶け合う。水分中の生き物であるから、砂糖水のように溶けた肉体と世界とが究極的に混じり合って一つになる。下層ディレクトリが上層ディレクトリに移動されるだけで容量自体は何も変わらないという叙述的な観念を、現実の事象として目にすると印象的で、人間世界ならば臓物を路上にばら撒くということになると思いますが、そう考えると”肝が冷える”。

 PCのファイルの整理をしているとCからDなど、ドライブを越境する時は基本的に移動じゃなくてコピーということになります。操作としてはカット&ペーストで右から左に移しているだけですが、データは一度複製されていることになります。そうなると思考実験のスワンプマンのように、沼で死んだデータが雷によって再構成されているようですが、これだと順序が逆なので桜井画門亜人の断頭です。NFTのAI──向こう二十年で出てくると思いますが──に人格を与えてみても、断頭を克服することはできないのです。そう考えると我々の宇宙が一つの空間で良かったなあと思います。

 生命とは即ち囲いのことである。イクチオステガが地球史上で初めてその囲いを水の外に持ち出した訳ですが、進化論以降にキリスト教が発生していたらきっと罪深いとか何とか言われているに違いない。宇宙に囲いがあるかどうかは知らないけれど、人間的な生活観では空間には必ず囲いがある。辺りを見回しても囲いがないのは炎などの現象だけだな。空間とはVolumeであり、Volumeとは体積であり、空っぽな部屋にも空っぽなりの圧力がある。指を一本動かすだけでもその圧力を感じることができる。

 建築というのは様々なレベルの囲いのことだと理解しておりますが、建築を作るということは空間の内圧と外圧の強烈な狭間で形状を維持するということです。今触れているラップトップもバッテリーの電圧と発電所からの電圧の強烈なる狭間で形状を維持しているに過ぎず、バランスが崩壊すれば爆発してしまってラップトップの形状は不可能になる。家の裏の雑木林の方から吹いてくる南風が、寝ている間に窓硝子を悲鳴を鳴らして震わせるのですが、この雑木林がなければ家の形状の脆弱性は上昇する。つまり圧力の関係を念頭に置き事物を観察すれば事物に別の見方、あるいは本質的な見方が見つかるんではないかという問い掛けです。

 人間の作った物はどれも人間の肉体に合わせて作られていますが、これは子供の時分には想像していなかったことでした。自転車やスケートシューズのようなへんてこな形をした道具を見た時に、ふむふむこれは人間の形に合わせて作られているんだな、ということは感覚的に理解しましたが、家というのは拡張的な胎盤であり、外観は巨大でミニマルであり、家自体は外界にありふれていた為、それとは気づきませんでした。しかし人間の作った物は全て人間工学である。

 我々は胎盤の殻に守られながら発生し、宇宙の圧力に耐えられる頃合いを見計らって世界に誕生させられる訳ですが、鳥の雛とは違って自分の力で胎盤の殻を打ち破らないのでやっぱり性根の弱い生き物なのです。