ネパール人と喧嘩をした
上野は好きだ。この街ではカルト、ホームレス、藝大生、オカマ、異常者、外国人、様々な人間が暮らし、賑やかな通りを行き交っている。私は上野に程近い居酒屋でアルバイトをしているのだが、私のバイト先では何故かネパール人が沢山働いていた。
三つの店と一つの厨房が繋がっている変な構造の店舗で、大雑把に言って私の仕事はホールと厨房の間で雑用をする。日本語があまり喋れなくても皿洗いくらいはできるから、バイトのネパール人たちは大体私と同じ雑用として働いている。
コロナで客足が遠のいてしまうまでは、毎日三、四人のネパール人たちと一緒に仕事をした。ネパール人たちと上手にコミュニケーションを取り、ちゃんと仕事をさせるのも私に与えられた役目だと勝手に思っていた。「ガムガラ」は仕事しての意味らしい。
彼らは日本人とは異なる労働の価値観を持っていて、日本語が巧みなネパール人でも「サボる」の概念を共有できなかったりする。多分、仕事は当然サボるものなのだ。
元々人懐っこい民族性もあるのだろうが、毎日コミュニケーションを取っている内に彼らから少なからず信頼されるようになった。
平日のメンバーは特に人懐っこくてすぐに仲良くなれたが、反対に休日のメンバーは馴染めず少し苦手だった。
ネパール人が多い職場だからやっぱりネパール語が飛び交っていて、簡単なネパール語は教えてもらったが、彼らの母国語での話し合いは理解できるはずがない。彼ら同士でずっと母国語で喋っている間は、日本にいるのに一人で海外へ渡ったかのような疎外感を感じる。
とは言っても、彼らは彼らで日本語学校で日本語を勉強してきたので日本語は達者なのだ。偶に抜群にエッジの利いたジョークを言ってくるから困ってしまう。
当然ながら、コロナの煽りを受けて私のバイト先も二か月間ほど休業することになった。私は実家暮らしでお金にはそれ程困らず、むしろ時間が出来たお陰で本を読んだり勉強したり有意義な時間を過ごしていた。
その間頭にあったのはネパール人の彼らのことである。私は彼らの生活のこと、学校のこと、家族のこと、色々なことを聞いていたから収入が無くなることが即ち何を意味するかを考えずにはいられなかった。
彼らは仕送りも奨学金も貰えず、いつ寝てるんだって云うくらい掛け持ちで働いて、生活費と学費を稼ぎながら学校に通っていた。それが突然「明日から仕事がなくなります。」と言われたらどうなるだろう。パンデミック下では渡航規制で母国にも帰れない。休業補償も出ない。どうやって生活していくのだろう。
先月からようやく私のバイト先も営業を再開し、柄の悪い従業員たちとの久しぶりの再会になんだか絆が深まったような気がした。ネパール人たちの顔は見えなかった。
再開しても客はめっきり減って、売り上げは芳しくなかったと思う。真面目で卒なく仕事をこなす私はマネージャーから厚く信頼されているらしい。いつも希望通りのシフトに入れて貰えた。
営業再開ののち、暫くしてから一人のネパール人に再会した。久しぶりに会った彼はもじゃもじゃだった髪をばっさり切っていた。「さっぱりしたね。」と私が言うと彼は笑った。
それから何人かのネパール人たちも戻ってきたが、結局厨房のも合わせて3人しかいなくなってしまった。他のみんなは辞めてしまったらしい。ネパール人同士も互いの連絡先を持っていないらしく、元気でやってるかどうかも分からない。
そんなこんなで同じポジションのネパール人はばっさり髪を切った彼だけになってしまった。
休日のメンバーが苦手と書いたが、その理由が他でもない彼である。こんな歳にもなって情けない話だが、彼とは以前一度喧嘩をしてしまった。喧嘩とは言っても私が一方的に感情をぶつけられただけで、私の方は「ミスったな」というようなことを思っていた。
それから暫くの間ギクシャクしていたのだが、コロナでみんな散り散りになって奇跡的に再会した後では不和もどこかへ吹き飛んでしまった。話してみると彼とは結構気が合った。彼は見た目とは裏腹に(失礼だ)本が好きで、フィロソフィーやサイエンスフィクションの本が好きだと言う。私も好きだと伝えると、日本人おすすめの作家や映画を聞いてきたりした。「君の名は。」がサイエンスフィクションかどうかという話で盛り上がった。
急に萎らしくなって、ごもごもと下手な日本語で喋りだしたので聞き返すと、以前喧嘩したときのことを謝ってくれた。
「アナタのことよく知らないときは怒ってしまった。今はよく知ってる。アナタいい人」
過ちを素直に謝まられたのはいつぶりだろうかと私は思った。大人になると謝れなくなるものだから。私にも謝りたいひとが何人もいて、上手く伝えられる自信もなくて、彼がひたすら眩しく見えた。
「友達なら喧嘩するものだよ」と、私は彼に言って笑った。